少々毒があるので、ご注意。 SNSの数は多い。 個人的に LINE=連絡手段。電話と同等。 メッセージ+ 一部のLINE非対応の方との連絡手段。 Facebook 存在確認。オフィシャルな社交場。 Instagram 趣味の写真を覆面で晒す場所。 Twitter 毒吐く、独白。 TIK TOK 見るだけ。煩悩のエリア。 NOTE 思考の整理。 と考えている。 そんな中、Twitterを中心とした誹謗中傷が多く、社会問題を呈しているが、FacebookにTwitter記事を
仕事では、だんだん複雑なことは面倒になりつつあります。 シンプルにやりたい。 それがままならない行動社会ですが。 一方で、好きなことは好きな方向に突き詰めたいわけで。 与えられたテーマを、どんな作品が出てくるとか楽しみ…といいつつ、表層的な被写体とか技術的な話で終わるなら、何のためのディベートなのか。 作品性が、作家性がないなら、テーマの意味がない。各自で深く思考しての解こそが刺激なのだと思うところ。 ま、票が欲しくて撮ってるわけではないですが、最近参加者激減の理由も分か
基本、ネガティブなわけです。 引きづらなくはなる、のだけど、少し時間を要する。 寝不足や答えのない反省とか。 特にSNSだと、唐突に連絡がとれなくなると何事か?!と焦る。 なんとなくハブられた…と分かると、安堵と共に不安になるもので。 人間関係って、つくづくお互い相手ある事だ
ここひと月ほど、Twitterに埋まってる。 まぁ正しく埋まってる感で、LINEより見てるかもな日々。 ちょうど一年前は、LINEオープンチャットだったが、あれはあれで楽しいものの疲れ、6月で足を洗っている。 SNSって距離感がサービス毎に、やや違うと個人的には感じていて、いまのメンタルがTwitterを選んでいるのだと思う。 Facebook…非常に身近。ほぼ社会生活に繋がるため、立ち回りや投稿はオフィシャル位の気を使う LINE…特に近しくなりたい、なっている人との
コロナ禍の必須アイテム『マスク』と『消毒アルコール』 そんなマスクは、夏場は蒸れる、動くと息苦しい。 これってルールと同じだなぁ。 無いと困る。守って欲しいと追加して増えていく。 コロナ禍における自粛。感染予防。不要不急の外出。 時短営業etc.....。 ネットでのエチケット、SNSのコミュニティでの投稿ルール、オンラインゲームでのギルドやクランでのハウスルールetc..... ルールって本来は、して良いことも悪いことも取り決めた物のはず(ボードゲームの取説がまさ
言葉の返し、ツッコミ、アドバイス。 言葉のチョイスはセンス、語彙が必要だ。 と同時に、心理的余裕と気遣いが無ければ、ただの口撃でしかない。 ディベートもそうだが、言葉を交わすということは、意見を通すことと同じように、落とし所を見つけるという部分も大きい気がする。 ルールがこう、だからダメです。 そう言われれば、なんだよ!となる人もいる。 ルール・レギュレーションを明確に定めることは大事なのだが、運用するのは人だ。 ルールはこう、だから、このままでは不十分だ。 こんなもの
スマホの普及、SNSの発達・・・ 色々と要因はあるものの、写真のポジションが変わってきている。 元々、絵心のない事から興味を持った写真。 風景を撮る=記録が役割だった。 その後、思い出に対象は広がるも、記録という役割は変わらなかった。 当時はまだガラケーで、今のようなSNSらしいSNSもなく、チャットでアスキーアートやフラッシュがせいぜい。 そんな中、ニコンのクールピクスを買った。 数年前に念願のミラーレス一眼を入手した。 綺麗に撮れれば・・・から通い出した教室。 いつの間に
某内親王様の婚約者の話・・・ではない(苦笑) 物を作る時、ある程度慣れや力が着くと、どうしても『小難しそうな』方向へ流れる気がする。 自分も、だが人間として、ありガチなんじゃなかろうかと最近思う。 それは見る側も同じで、難しいそうな物をウムウムと訳知り顔でいると、なんとなく満足するものだ。 下町的な名前のお笑い芸人がMCを務める、某番組。 俳句をプロが添削するのだが、こんな一言が刺さる。 『分かりにくいと文句を言われ、分かりやすくても文句を言われる』 なるほど。 結
人は皆、実際のところ同じ人はいない。 当たり前の事なのだが、僕らはそれを都合よく忘れる。 みんなと違うから不安になり、 みんなと同じだと安心する。 それでいて、 皆と違う事を求め、 皆より違っている事を妬む。 似ていることと同じことは違う。 同じ方向を見ていても、揃わない。 だからこそ揃った時に感動が湧き上がるのだ。 違うからこそ世界は楽しみに満ちている。 違うことは恐怖ではない、可能性の輝きなんだと、 月に似た彼の瞳を思い返した。