シマシマのウマ、シマウマ
著名人がDVを受けている時の音声がTwitter※のタイムラインに流れてきた。
男の怒鳴り声と怯えるその人の声、続いて何だか分からない大きな音。家庭内暴力を受けた事はない僕だけど、それでも嫌な記憶が蘇ってきた。…「蘇る」というのが1度死んだ物のための動詞なら、完全に押し殺せてはいなかった記憶にそれを用いるのは不適切かもしれない。回復した、くらいが妥当な表現だろうか。どうでもいいか。ともかく。押し殺せてはいなくとも確かに僕の中で色褪せていたはずのそれは、SNSで流れてきたDVの音声1つで簡単にあの頃の発色を取り戻してしまう。
大気の粒ひとつひとつに重りがついてるかのような実家の空気と、登校すれば低くない確率でお腹を殴られていた中学時代は、知らないうちに僕の舌の上で混ざり合いDVと似た味になっていたのかもしれない。
実家から離れて3年、暴力をふるってくる方々から逃れて7年が経つけど思えば未だにそれらが尾を引いている気がする。
例えば「実家のような安心感」って言葉はあんまりピンと来ない。実家にいて安心できたのは布団に潜り込んでイヤホンを付けた時と夢中で本を読んでる時だけだった。
液晶と文字と暗闇しか見たくなかった。
母のヒステリー声も、父が家に帰ってきて扉を開ける音も、父が帰ってくると余計不機嫌になる母の声も大嫌いだった。
家にはいたくないので学校に行ったけど、学校も好きではなかった。教師の目につかない場所だと殴られたり蹴られたりするからトイレにも楽に行けなかった。わざわざ人のいない別棟のトイレに行ってたのを、これを書きながら思い出した。懐かしいな死ねよホントに
今思うと中学校なんて行かずに図書館にでも通えば良かったけど、僕がサボタージュを習得したのは高二になってからだった。高校では別に殴られなかったから、わざマシンとかで中学生のうちに身につければよかったな。
大学に通っているけれど、大学生が怖い。あの時僕を殴っていた人達の成長した姿のような気がして。タイムふろしきを被せたら、野球部のアイツやバスケ部のアイツの顔になるんじゃないかと本気で思う。全員似たような顔しやがってよ。
目が2つに鼻が1つに口が1つ。高確率でパーマ。
最近はどこを見ても大谷翔平の名前ばかりで、世界が彼を模した金太郎飴になったのかとすら疑った。野球って野球部という文字の2/3を占めているから目に入るだけでも苦手なんだけど、世の中には野球が好きなオタクが多すぎる。
お前ンとこにはいなかったのか?部活動と称したホモソーシャルで日々暴力性を増長させている声のデカい野球部の方々は。
不幸ぶるのが得意です。不幸に縋るのが得意です。不幸に浸かるのが得意です。不幸を噛み締めるのが得意です。
いつからか世界が嫌いになりました。
好きな部分だってそれなりにあるけれど、それは泥水の跳ねたワインのようで、或いは別の男に抱かれた意中の子のようで、何だか嫌い一辺倒であることよりも辛いことでした。
だから不幸だと落ち着くんです。やっぱり現実ってくだらないんだと諦めてしまえるから。
現実は僕の敵で、目を逸らしたり貶したりするに値すると思えるから。嫌いな映画のレビューが星2とかだったら嬉しいのと同じ。
不幸に包まれていると、世界を嫌う自分が肯定されていく気分です。心地良くなくても居心地良い。僕は不幸である事にすっかり落ち着いて、安心してしまっているんです。
僕は生まれ変わったらシマウマになるんだろう。
僕は慎ましく草しか食べないのにアイツらは動物を殺して食べてばかりだ、って。
それに比べたら僕はなんてコーショーだ、って。
そんな事を考えながら、彼らの”百獣の王”という世間評価から目を逸らすようにして草を食み生きていくんだろうな。
こういう事を考えていると、後ろの席に座っている5人組の大学生がヒソヒソ声で「アイツは不幸をダシに自分を正当化してるだけだ」と僕を指さしてくる気がします。事実だと思います。
でも、それを指摘しても糾弾できてる事にはならないんだからな。
僕は悪くないんです。正当化してるんだから、正しくて当たり前です。
追伸の不幸アピール:
「女の子を殴るなんて最低」という言葉を見る度に、ほな男なら殴られてもええんかい、と思ってしまう。きっと論旨じゃないだろうに。ごめん。
僕も殴られたら痛かったんだけどなぁ。
※現Xの旧称