厳島の神 考察②
■厳島の歴史 続き
厳島神は「日本書紀」に初めてその存在が確認され、「伊都岐嶋神」
に対して、811年には名神とされ、供物を奉るとなっていることから、
朝廷から崇敬されていたことが伺えます。
ただ「厳島信神」ではなく、「伊都岐嶋神」なんですね。
その後、祭祀権をもった佐伯氏によって社格が向上し、祭神も次第に
自然神から海の神としての性格が付与されていきます。
「日本三大実録」によると、867年には
「伊都岐嶋”宗形”小専神」が合祀されていることが分かります。
つまり、ここで「宗形(=宗像)」(宗像三女伸)と結びつくことで、
元来の自然神、弥山としての山の神に加え、海の神としての神性が
形成されました。
その後、平清盛の時代には神仏習合により、仏教関係の建造物が建てられ、
本地垂迹の思想も導入されてきました。
清盛の「平家納経」願文には
「相伝えて云う、当社は是れ観世音菩薩の化現なり」
とあり、他には本地を大日如来・毘沙門・千手観音とする説もあります。
1389年の「鹿苑院殿厳島詣記」には厳島大明神は「沙竭羅竜王の姫宮」、
1447年の「臥雲日件録」には厳島の神は竜神とされ、世間が現世利益を
求めることから、エビス神の神性も出てくるようになりました。
1536年には大内義隆が朝鮮に送った書簡の中で、厳島神社の祭神が
「弁財天」とされており、さらに厳島神を信仰する商人や漁民の信仰と
結びつき、結果として
自然神、山の神、海の神、女性神、商業神の性格を持つことになりました。
■考察
上述の通り、厳島の神は原初の「伊都岐嶋神」から、
宗像三女神(私は市杵島姫命だけだと思っていますが)
の合祀から、人々の定住がきっかけとなり、仏教や
民間信仰から現世利益を求めることで、その神性の
形を変容させてきました。
ということは、厳島の原初の神は宗像三女伸ではなく、
他の神であることとなります。
もちろんその後に神性を付与していった、仏教系の神や
えびす神(大物主や事代主、大国主系)でもありません。
鎌倉時代まで人々が神官以外は足を踏み入れなかった
ことを考えれば、この島は「恐れられていた」と考えるのが
自然でしょう。
伊都岐(いつき)とは、本土から舟などに乗せた
死体が、着付(いつ)く嶋。
もしくは穢れた人(罪人)などが
流され着付く場所で、最終地点、つまり黄泉の国・死の島
の意味であったと考察します。
だから、
恐ろしくて、とても人が住めるような場所ではない。
また島にお墓がないのも、穢れが充満するこの島に、
お墓があると、子孫である自分たちも穢れるということと
推察します。
死体も単なる死体ではなく、殺された、疫病に罹った、
人身御供として捧げられた、特別な理由をもった
死体だと思っています。