発酵と教養
「腐る」という言葉は2つの使い方がある。1つは細菌が繁殖して発酵したという意味だ。もう1つは人に対して使い、悩みなどを抱えたまま生産活動をしないという意味だ。全く意味が違うがこの2つは同じ現象を別のスケールで言い当てているように思える。
細菌が繁殖する条件は栄養素があることだ。生ゴミには多様な細菌叢が発生するが砂漠では限られた種の最近しか存在できない。すこし大袈裟に敷衍すると豊富なリソースが多様性の基本条件になっている。
教養もお金がないと身につかないという点で似ている。お金がないと読むべき本だけしか買えない。少しお金があるとたくさん本が買えるが、それでも読むべき本を選んで買う。読むべき本は人によって大差ないから本の種類が均質化する。ところがお金が有り余るほどあると必要なさそうな本でも買うことができる。そこで初めて読むべき本以外の種類の本が本棚に入る。本棚が多様性を獲得する。ここでもやはり豊富なリソースが多様性の基本条件になっている。
もう一つの軸として役に立つか立たないかがある。チーズや納豆とネズミの死体は細菌としては全く同じ現象だが、人間の役に立つものは発酵、害になるものは腐敗と呼んでいる。
人間も同じで、教育リソースを投下しても放蕩息子になってしまう場合もある。どんなに哲学書に詳しくても酒に溺れていれば「腐った人」と後ろ指を刺される。同じ知識の多様性を持っていても社会の役に立てば教養と呼ばれる。
多様性にリスクがあるとすれば均質的な集団に豊富なリソースを投下した結果、思わぬ方向に発酵が進んで、集団が腐ってしまうことだ。我々はチーズや納豆を作るために食物をうまく腐らせる方法を知っているが、集団をうまく腐らせる方法をまだ知らない。
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