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デスハラ vs リブハラ

まあこれだよね。安楽死が合法化されると死を急かされる。邪魔だから消えることが可能になると邪魔だから消えてくれ欲しいというハラスメントが成立する。

安楽死に反対する人はこういう理論でそれは正しいと思う。生きる権利は憲法で保証されているし死ねって言われて死ぬ世界をよい世界だとは思わない。

一方でリブハラというのもある。

生きたい人に死ねよというのと同じように死にたい人に生きろよというのはハラスメント、ということだ。この意見への反論は見たことがない。

で、この2つの何がちがうのか。

デスハラは漫画になっていてリブハラは単なるツイートというところが決定的に重要だと思う。つまり生きたい人=バイタリティのある人ほど活動的で発言力があるので「デスハラvsリブハラ」では常にリブハラが勝利する。

死にたいと思っている人が何人集まろうが生きていたい人には勝てない。社会は弱い人に慈悲を与えてくれる組織じゃない。生きたい人のための生きるための組織なわけで、死にたい人が苦しかろうが自殺しようが生きる人の生きる権利が脅かされなければなんでもいい、という組織なのだ。

「死にたいから安楽死を用意してさい」

「ふざけんな!勝手に死ね」

というのが本音だと思う。生きたい人のサポートがままならないのになんで死にたい人の死をサポートしなきゃいけないんだってこと。生きるのも大変、死ぬのも大変。社会に死にたい人の死を応援する余力はない。

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じゃあ死にたい人はどうしたらいいの?

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まず社会に頼るのをやめる。というか社会は基本的にウジウジ生きてもらった方が得。死にたい人は社会に安楽死を期待することはおろか、自分で死を選ぶことさえも阻止される。なので、死にたい人は(死にたいなら)戦略的に死ねるよう頑張る必要がある。死にたい人は反社会勢力だ。

確実に死ねる方法は簡単に手に入らないと思った方がいい。もちろん医者には簡単なことだが、医者は社会が社会のために作ったものなので反社会性力のために手を貸すなんてことはしない。

でも確実に死ねる方法を勉強することはできる。

安楽死を自分で作ることは不可能じゃない。

教材はたくさんある。しかも社会が書店で売ったりしている。確実に死ねる方法を公開することはできないけど誰かが勉強をして自分だけで安楽死をすることを社会は止めることはできない。

真剣に自殺を考えている人は家のどこかにロープを持っていると思う。長さや強度を考えながらこっそり購入して、届いたら首に当ててみたりハングズマンノットの練習をしてみていると思う。

でもそれで本当に死ねる?勇気出る?もし即座にYESと答えられないならやめた方がいい。死ぬ方法があるという安心感が希望になって生きる苦しみを長引かせる。

社会や家族があなたを生かそうとする熱量と同等の熱量をぶつけないと死ぬことはできない。だらだら生きて、生きるのが嫌になったら誰かが血の滲む努力で作った医学が痛みのないように殺してくれる、そんな甘い世界はない。安楽死を認めてくれない社会に文句を言ったり、できもしない自殺を考えたりして逃げるのを止めよう。だってこれは殺人だ。首を括る前に腹を括って真剣にやらないとできるものじゃない。

努力しよう。勉強しよう。それが生きる道なら。

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Yako
🐈❤️