人の手の暖かさが、どうしようもなく気味が悪いのだ
人間の業は生きたいわけではないのに、死というものを拒否してしまうところにある気がする 死んだら何もわからないし、その後をずっと監視できるわけでもないのに 神様のいたずらのような、ハプニングのように訪れる人の優しさに、 優しさを与えてくれた人たちへの、私が死ぬことへの罪悪感を抱かせる 私は死にたいよ この先幸せがあるかもしれない 億万長者にもなれるかもしれない でもそのifに希望を見出せた時代は過ぎてしまった 希望を持つには心を折られることが多すぎる 被害者意識だと何だと
死のうと思う毎日のなかで、たまに鞭と飴みたいに、あぁまだ生きていてもいいなと思ってしまう出会いがあったり出来事があったりして その度にあんなに死にたがってたくせに所詮は生きようと思っていることに気付いてとてつもなく恥ずかしくなる 私は長年お酒を飲んでいて、何で飲むのかもよくわからず、 でも飲んで酔ったら人類愛的にみんなを好きだと思えるし、いつもだったら流さない意地悪な言葉も深く刺さる前に捨ててしまえるから飲むのが好きなんだろうと思うのだが、それは一種の自傷行為というか 飲ん
今日も死にたい一日が終わった 今までnote使ってこなかったけど、死にたい人が他にもいるんだと思うと 世の中にも何か小さな光のようなものを感じる
殺してやりたいほど憎い奴がいる、好かれたくて生きているかと言われたら違う それでも自分の愛する人が泣いていたら、理由を聞かずに抱きしめてあげられる優しさと余裕は持っていたい 人に期待するのは愚かという考えはいつから今のように方々から聞こえるようになったんだろう 人に期待することはそんなに揶揄されることなのか? 人に期待して傷ついて、心を閉ざしてしまう人より 人に期待して傷ついて、それでもまた人に期待をする人の方がよっぽど愛おしい 人間が何かに期待しなくなるのは仏様になった
死にたいという4文字がここ半年ずっと続いている。死にたいというより生きていたくないのだ。 私の周りにいる私を明るくしてくれる人達はみんな愛を知っていて、家族仲もよかった人ばかりで、それにより彼らは与える愛を知っているのだが、 私はそうではないから、歪な形で愛を返す他なく、それが非常につらくて恥ずかしくて、今ある彼らとの絆のようなものが希薄になったときのことを考えると これからの人生を私が1人で生きていくのはとてつもなく恐ろしくて悲しくて今死にたくなってしまう。 生まれたいと