美術屋の頃の話。

先日、午前中に仕事を済ませるとそのまま午後休を取り喫茶店で一服していた。

平日の五反田の喫茶店は自分と同じようなサラリーマンのサボり処か、奥様方の座談会でだいたい席が埋まる。

家庭内別居の話題で盛り上がる奥様方の席上には、牧草地帯の風景画の複製が飾られている。

ふと、美術の仕事に携わっていた時代の頃を思い出す。

20代の半ばから30の手前まで、いわゆる美術品仲介業の会社で働いていた。
顧客から預かった作品を競売に掛け、落札手数料・保険代で収益を出す。

最初は設営スタッフとしてアルバイトで入り、次の転職先が決まるまでの3ヶ月間の謂わば繋ぎ感覚で勤めていたが、美術コレクターや企業のお偉いさんとの交流をしていくうちにのめりこみ、半年、1年、そして気がつくと3年が過ぎていった。

ルノアールからピカソ、北斎から若冲、陶磁器や現代アートまでありとあらゆる作品を目の当たりにした。

作品自体に心惹かれることも去ることながら、何より作品を求める人々の熱意がひしひしと伝わってきて面白かった。

印象に残っている出来事がある。

週末に開催される競売の下見会を開催中、僕は浮世絵のコーナーを担当していた。3日間で常連のコレクターや美術関係者などが絶えず出入りする。

最終日、閉会間際に駆け込む一人の外国人がいた。

彼は受付を済ますなり僕のところへ来てガラスケースに展示している北斎の浮世絵を指差し、「コレをみせてください」と言った。

僕は白手袋をはめ、ケースから折り目をつけないように慎重に包装紙で包まれた「富嶽三十六景」を取り出した。

浮世絵というのは光に弱く、ガラスケースも常に消灯しているので、
声をかけられたときのみ、点灯して観れるようになっている。

その外国人は慣れた手付きでひょいと持ち上げ、裏面から透かしてみている。その後持参の小型ルーペで表面を確認している。

そして一言。

「コチラハ、ショズリデスカ? ソレトモ、アトズリデスカ?」

ーショズリ?アトズリ??

当時入社間もない僕は、恥ずかしながらその外国人の発する単語の意味が全くわからなかった。

一瞬間が空いた後、「お、お待ち下さい…」とバックヤードへ後退り。

後に学んだことだが、浮世絵は同じ木版画に何度も藁半紙を充てて摺っていき、初期に摺ったものを「初摺」、何回も使用したあとに作成された版画を「後摺」と呼ぶ。

先輩社員に伺うと、フランスから来たその筋では有名な浮世絵コレクターだった。

外国人の浮世絵に関する情熱と知識量は、我々の想像を遥かに超えるものであることを実感した。

競売ではどの作品を誰が落札したかは守秘義務に当たるので言えないし、下っ端ペーペーには開示されるわけがないので解らない。

3年という期間だったが、転職した今でもこの業界で知り合った方と交流があるし、皆それぞれが美術に対し熱い思いを持っている。

良い経験をさせていただいたと今でも思う。

思い返すうちに並々注がれたアイスコーヒーも空になったので、暑さで脱いだジャケットを片手に持ったまま店を出たのであった。

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