メメント・モリ、あるいは「『森の小さなレストラン』を怖がりに行くな」という話
YouTubeショートやインスタグラムのリールなど、ショート動画系のコンテンツはついつい見すぎて時間を浪費しがちだ。料理動画やグルメ紹介、音楽やお笑いコンテンツの切り抜きなど、元から文章や写真の投稿・フルの動画に当たれば一度見て満足するような情報でも、つまみ食いでついつい次も次もと取り込んでしまう。
今更になってこの曲の話をするのも、と思う話だが、よくグルメや料理の動画を見ていると、おしゃれな調理工程やサービングのうしろで決まって流れている曲がある。手嶌葵さんの歌う「森の小さなレストラン」(作詞:御徒町凧、作曲:森山直太朗)だ。
NHK「みんなのうた」で2023年に制作された歌だそう。実家を出て全然テレビを見なくなっていたので知らなかった。
右から左へおおわらわ
手乗りの子熊も踊り出す
カルパッチョ パエリア オードブル
リゾット デザートはありません
お墓の中まで届けましょう
今宵は最後のフルコース
よくこの曲の話がSNSやブログで紹介されていると、最後に突然暗くなる歌詞(ラスト二行)に驚いてこの曲を「怖い」「ホラー」「トラウマ曲」という扱いをしている人が多く、曲のテーマである「レストラン」そのものが「"甘き死"の象徴」「注文の多い料理店的な罠」とか「客は自殺者を表している」とか、いろんな推理が交錯している。そんなに暗い曲なんだろうか、これは。
そもそもこの曲における「森の小さなレストラン」とはどのような存在なのか? 最初から歌詞を読み返し、わかることを書き出してみる。
ドングリを辿っても着きません
森の小さなレストラン
空っぽのポケットを弄って
忘れた人から辿り着く
曲の初め、このレストランがどんな場所か、ヒントとともに全体の曲調が提示される。
森にある
「ドングリを辿」ると着くと考える者もいる(これはなぜ?)が、そうではない
客として辿り着くことができるのは、「空っぽのポケット」(なにが入っていた?)を弄(まさぐ)りながら、何かを「忘れた」(なにを?)とき
最後の「辿り着く」で、客がまたひとり訪れた、というシーンの設定になっている(ことが直後からわかる)
予約は一つもありません
森の小さなレストラン
空席だらけのランチ時
小鳥がパタパタ笑ってる
起承転結の承にあたる部分、「辿り着」いた客の入店とともに、店の内部が描かれる。新たなシーンの展開。
この客がレストランを訪れたのは昼ごろ(「ランチ時」)
「予約は一つも」なく「空席だらけ」の店内から、この時間にレストランを訪れる客はめったにいない(なぜ?)
森には小鳥が住み、鳴いている
真っ赤なペンキのトタン屋根
メニューはおすすめ そればかり
厨房の方から聞こえてる
バイオリン フルート チェロ ビオラ
店の屋根は赤く、トタン製である
メニューにはシェフ?スタッフ?の「おすすめ」の料理が、さまざま(「そればかり」)並んでいる
客はメニューを眺めて、考えている?
厨房からは「バイオリン」「フルート」「チェロ」「ビオラ」など、さまざまな楽器の演奏が聞こえる(なぜ料理をしているはずの厨房からなのか?客から演奏の様子が見えないのはなぜか?)
ようこそようこそ いらっしゃい
たらふく食べたらお眠りよ
それでは皆さんさようなら
明日は明日で エトセトラ
レストランは客を迎え入れ、歓迎している(他の客がやってきた?ランチ営業の時間から間が空いている?)
→しかしそれらしい描写は途中になく、「チェロ ビオラ」から「ようこそようこそ」までの間にはメロディ的な展開の断絶もない(これより後で明らかに曲調が変わる)
→「真っ赤なペンキの」〜「チェロ ビオラ」まではまだ店の外にいた客視点から、店内を観察した描写であるとわかる。すなわちこの時点ではまだシーンは昼であり、ここで初めて客が店内に招かれる
客は料理をもてなされ、眠るよう(「お眠りよ」)促される(なぜ店内で眠ることになるのか?)
この時点で店内には複数人(「皆さん」)いるが、帰る支度をしている
この店は次の日も(「明日は明日で」)営業する(今日の営業は終わったのか?眠った客はどうやって帰るのか?)(「ようこそ」からここまでは誰のセリフなのか?)
右から左へおおわらわ
手乗りの子熊も踊り出す
カルパッチョ パエリア オードブル
リゾット デザートはありません
お墓の中まで届けましょう
今宵は最後のフルコース
曲のクライマックス。曲調は変わり、新たな展開となる。
ここまでと異なり、新たなシーンは夜(「今宵は」)である
大勢の登場人物(「右から左へ大わらわ」「手乗りの小熊も」)がシーンの中にいる
昼の描写と違い、コース料理が振舞われている(おそらく「おすすめ」とあったのはアラカルトだとして)
「フルコース」と言われているが、「デザート」はない(なぜか?)
コース料理の描かれる順番が「カルパッチョ パエリア オードブル リゾット」であり、一般的な順番でない(なぜか?)
→この部分は「カルパッチョ、パエリア、オードブル、リゾットはあるが、デザートはない」ではなく、「カルパッチョも、パエリアも、オードブルも、リゾットも、デザートもない」という意味である可能性がある(なぜか?)
誰かの死を弔っている(「お墓の中まで」)場面である(誰の死か?)
今日振舞われる料理が「最後のフルコース」である(なぜか?)
このように、わかることを整理しつつ、問いを立てながら歌詞を読んでいくと、途中で仮説として答えが出る問いもあれば、答えられていない問いも残っている。これらの問いをもう一度まとめると、次のようになる。
昼時のシーン(曲前半)における疑問点
「ドングリを辿」るとレストランに着くと考えられているのはなぜか?
辿り着く客の「空っぽのポケット」にはなにが入っていたか?
辿り着く客はなにを「忘れた」のか?
なぜ昼時のレストランで「予約は一つも」なく「空席だらけ」なのか?
客はなぜ店内で眠ることになるのか?
店の人間が帰ったあと、眠った客はどうやって帰るのか?
「ようこそ」から「明日は明日でエトセトラ」までは誰のセリフなのか?
夜のシーン(曲後半)の疑問点
なぜ店内に大勢いるのに、コースで振舞われる料理がないのか?
誰の死を弔っているのか?
この夜振舞われるのが「最後のフルコース」なのはなぜか?
「森の小さなレストラン」とはどのような存在なのか?という大きな問いからこの疑問は始まっている。自分ではこの大きな問いに自分なりの答えを見つけられたと思っているのだが、それにはこれらの疑問にすべてもっともらしい説明を付けることが必要だ。ひとつひとつまとめよう。
「ドングリを辿」るとレストランに着くと考えられているのはなぜか?
このレストランは「森の小さなレストラン」で、ドングリは森にあるものの代表例だ。客は森の奥深くに近づこうとして、ドングリを一つ一つ数えて辿っていくことになる。ドングリの落ちている場所をしらみつぶしに探していけば、どこかに辿り着けるのかもしれない。
しかし、このレストランはそうして一歩一歩近づこう、決まった目的地がどこかにあるはず、と考えながら歩いていても辿り着けない。そこに、このレストランが何かを紐解く特徴がある。
辿り着く客の「空っぽのポケット」にはなにが入っていたか?
辿り着く客はなにを「忘れた」のか?
「空っぽのポケットを弄」る、という行為は、そのポケットに何かが入っていたはずだ、という意識があって起こるはずのものだ。しかしポケットは「空っぽ」で、何が入っていたのか、落としてきてしまったのか、あるいは中身を空にしながらここまできたのか、不在から分かる情報はなにもない。探していたはずの何かがあったはずのその場所が「空っぽ」である、ということだけに直面する。
客が忘れるのは、「自分が探していたもの」であり、それは空っぽになる前のポケットの中に入っていたはずの、自分が持っていたはずの「何か」。自分が探して、ドングリを見つけては辺りを見回していたはずの、行こうとしていたはずの「どこか」でもある。目指していたものがなんだったか、それすらも手放したときに見えてくるのがこの「森の小さなレストラン」だ。
なぜ昼時のレストランで「予約は一つも」なく「空席だらけ」なのか?
このレストランは昼時に訪れる人がほぼいない。それは夜に賑わう場所だからだ。夜になると自然に訪れる人が増え、しかし誰もがそこを目指そうとして辿り着くわけではない場所。
客はなぜ店内で眠ることになるのか?店の人間が帰ったあと、眠った客はどうやって帰るのか?
このレストランでは料理を食べたあと、「眠る前に帰る」ということを考えなくてよい。なぜなら客が「この場所で眠る」ことは、「この場所から帰る」ことと同じだからである。
「ようこそ」から「明日は明日でエトセトラ」までは誰のセリフなのか?
この場所、つまり「森の小さなレストラン」での体験を司っている、客ではない何か(たち)。「手乗りの小熊」もその一員として出てくるあたり、彼らはみな人間ではないのかもしれない。
なぜ店内に大勢いるのに、コースで振舞われる料理がないのか?誰の死を弔っているのか?
店内を賑わせているのは、このレストランを営んでいる彼ら(もしくは、冒頭に登場した客とは違う大勢の人間たちもいるかもしれない)。コースで振る舞う料理がないのは、その料理を食べてもらうべき本来の客がいないからだ。ここで死を弔われているのは、曲の最初に昼時のレストランを訪れたあの「客」と考えていいだろう。とはいえ、そのお昼時の様子からは何日も、何年も経った、ついにその客が寿命を迎えた日の夜のことである。
この夜振舞われるのが「最後のフルコース」なのはなぜか?
「お墓の中まで届けましょう」――この夜振舞われる料理は、連日このレストランを訪れていた今は亡きあの「客」に捧げられるべきものだ。その客がふたたびレストランを訪れ、新たな料理を食べに来ることはない。
大きな問い:「森の小さなレストラン」とはどのような存在なのか?
ここまで書いて自分の中ではっきりしている仮説は次のようなものだ。「森の小さなレストラン」とは、人間の日常での生活や意識と離れたところにある、「眠り」や「休息」「休憩」といった概念の象徴。そこで振舞われる「料理」とは、眠りや休息の間に見る「夢」や「記憶」「思い出」。
「安らかに眠れ(R.I.P.)」と西洋式の墓碑に刻まれるように、死は永遠の安らぎ、再びつくことのない最後の眠りを想起させる。人生や生活の疲れから安らぎを求めてしばしば昼寝にふけっていた客は、その生を終えて最後に究極のフルコースを捧げられる。あるいは死してもまた、客の記憶は他の人々の夢や思い出として振舞われ続けるのかもしれない。
死は誰しもに平等に訪れるものだ。人間は不死ではない、いずれ自分の身にも降りかかる。ゆめゆめ忘れるなかれ――「メメント・モリ」という警句も、人の死がフィクションやエンタメとして大衆化してしまった現代ではなかなか身に染みて感じられないものかもしれない。だけどせっかく素敵な安らぎの場として描かれている「森の小さなレストラン」を、そんなモキュメンタリーホラーや肝試しのような、自分から「怖がりに行く」姿勢で見なくたっていいじゃないか、と思う。
深夜に書き始めたこの原稿も、気づけば2時半を回ってしまった。文字数を数えているうちは寝られないし、そろそろこちらも切り上げて、明日のために眠りにつこうかな。