「言葉る」記録#03〜「言い回す」ことの怖さ〜

特定の表現が、元の文脈を外れて「言い回し」として使われることがある。

「シュレディンガーの猫」は良くも悪くも定期的にネットで流行る一例だ。
元々の思考実験が指す内容はこうである。中身が見えない箱の中に放射性原子と猫を閉じ込める。さらに、箱の中の放射性原子が(確率的に、いつか必ず起こる結果として)自然に崩壊したことを観測すると、何かしらの仕組みで必ず中にいる猫を殺してしまうというからくりを箱に取り付けておく。この仮想的な実験設定では、この恐ろしい仕掛けが作動しない限り、中にいる猫は生き続けていると言えるが、その様子は箱の外からはまったくわからないものとする。いかにも変な状況だが、この思考実験を提唱したシュレディンガーは、当時の量子力学の考え方を批判するために、わざとこのような極端で複雑な実験設定を考え出したのだ。

量子力学のある考えでは、箱を開けて中を実際に観測するまで、中にある原子が崩壊しているか否かの状態は予測できず、その結果は2つの矛盾する事象の「重ね合わせ」、平たく言えば、箱が閉じている限り、中の原子は「半分崩壊していて、同時に半分崩壊していない状態」として解釈される。
ただし、これはあくまで光(光子)や原子核、電子など、人間が容易に観測できないミクロの現象に当てはまる解釈であり、観察できるマクロの現象についてはこのような「重ね合わせの状態」は成立しない。ミクロの事象には、常識で考えられるマクロの事象とは違った解釈が成立する、という考え方だ。

しかし、シュレディンガーは冒頭のような思考実験を行なって、この解釈がやはり直感に反することを主張した。彼は「放射性原子が崩壊していれば猫は死んでいるし、崩壊していなければ猫は生きている」という状態を見えない箱の中に作ることで、ミクロの事象(原子の状態)とマクロの事象(猫の生死)を前提事実として結びつけた。このような状況下で、原子の状態は観測しなければ「重ね合わせの状態」にあるから、猫も「重ね合わせの状態」にある、すなわち、「半分生きていて、同時に半分死んでもいる」と言えるのか? ミクロとマクロの間に、その境目はないのではないか?と異を唱えたのである。らしい。

ところが現在、「シュレディンガーの猫」というフレーズは、その思考実験の文脈を外れて、極めて単純化された「結果を見るまでわからない」ということや、「どっちの可能性もある」ということを表すための慣用句的な「言い回し」として使われていることが多い。
詳しい人に言わせると、創作作品、特にSFなんかでもこの使い方をしている例が多かったりするそうだ。「シュレディンガー」という人名の響きだろうか、確かにそこかしこに使いたくなる気持ちも分かる気がするが、ちゃんと知っていて気になる人は気になるものなのだろう。

さて、私も理系の学生なので、こういう理系の用語が一種のジョークや慣用句など、それ単体で「言い回し」として用いられている例はよく見かけるし、ちょっとその使い方は違うんじゃないか、と気づくことも少なくない。ただ、こういう「言い回され方」に食ってかかるのも、それはそれとして気がひける思いがするのである。

理系から少し話をずらして、文系でこういう「よくわかんないけどかっこいいので『言い回され』てる」系統の用語がないか、考えてみると、かなりの数が思い浮かぶ。

「囚人のジレンマ」…「みんなが自分の利益を考えた結果みんなが損をする」的な文脈で使い倒してるけど、あれって元々は参加者が2人のゲームの中での戦略を述べたものじゃなかったっけ。複数人の場合もそう呼べるのか??

「テセウスの船」…「部分ごとにでも、その物を構成するキーパーツや全部が入れ替わったらもう別物になってしまう」「本末転倒」みたいな意味のたとえに使われがちだけど、元のパラドックスはそういう教訓じみた決めつけではなく、なにかの構成部分が入れ替わっても同じものとして扱われうるならば、その対象の「同一性」とは何なのか、ということを問う哲学的問いかけだった。

「パブロフの犬」…「〇〇すると、自然に××してしまう」ことをなんでもこう呼んでる気がしてきたけど、あれは「後天的な学習によって新たな条件反射的な反応を刷り込まれる」ことに限定して使われる例えのはず。

この辺りはもう「有名な誤用」の域に入っている例だと思うが、本当にこういう「元々はそういうやつじゃないんだけどなあ…」と他人に思われかねないやつを、かっこいいからってだけで自分も「言い回して」たりしないか、自信を持てる人ってどれだけいるだろうか。
「意味はよくわからないけど指示された通りの作業をやっているだけの状態」のことを適当に「中国語の部屋」とか「哲学的ゾンビ」とか言ってたりする人、いない??ほんとに???

僕は怖いです。怖い。特に誰から指摘されるともなく、怖い。

ところが最近、久々に自分がその「元々はそういうやつじゃないんだけどなあ…」という感覚を味わう側になる経験があった。

その表現とは、「平仄」である。読み方は「ひょうそく」。

元々の意味を話しだすとまた長くなるのだが、かいつまんでお話ししよう。

そもそもなんでこの言葉の本来の意味を私が知っているのかと言えば、高校二年生の時にあたった母校の漢文の先生がよっぽどの変わり者で、一年生の授業を終えて「書き下し文?再読文字?はて?」となっていたばかりの我々の頭に、いきなり半年間で漢詩の構成法を叩き込むという暴挙をなしたお方だったからである。

漢詩の規則。みなさんの高校の古典の教科書や資料集にも、きっと後ろの方にちょろっと載っていたあれ。実際には入試にほとんど出ないからと「最後の文字は押韻する決まりなんだよ!ほら、音読みしてみれば分かるよね〜」ぐらいでお茶を濁された、あれである。

実際の規則はもっと複雑なのでここには書ききれないが、簡単に言えば、漢詩の中でも特に唐代以降に詠まれた五言詩や七言詩においては、どこの字(○文字目)にはどんな発音の字しか置けないか、という規則が厳密に定められていた。

その際に参考にされたのが、隋・唐代の当時の中国語の発音(声調)によって分類された、「平音」「上声」「去声」「入声」という4つの発音の種類。全ての字はこのどれかの発音に分類され、特に平声以外の3つは合わせて「仄声」と呼ばれた。この、平声と仄声の字の並び方が、以降の漢詩では特に重要視された。

例えば七言詩では、一行に並ぶ七字が「平・仄・仄・平・平・仄・仄」の順で並んでいるものは、問題がない。ところが、「平・仄・平・仄・平・平・仄」の順で並べたりしたらダメ。一行の韻律、リズムが美しくないとされるのである。

なぜこんなややこしい規則で詩なんか作るのか、と思われるかもしれないが、例えば英語詩のソネットやリメリックを知っている方は思い出してみてほしい。これらの詩にも、一行あたりの音節の数や、行ごとの押韻の規則のほかに、行の中のどこに語の強弱アクセントを置かなければならないかが定められていた。詩は元来、口伝えで広められていくもの。アクセントや声調に明確な規則がある言語であれば、定型詩の規則にそれが織り込まれることもけっして珍しくはない。

とにかく、このような厳格な規則のもとで漢詩が親しまれた背景から、文章においてその文体・形式を整えることを「平仄を整える」などと言うようになった。転じて、話の筋道やつじつまが合っていないさまを「平仄が合わない」と言ったりもする。しかし、このような慣用句的な言い回しが広まったのは日本でも後世になってのことと考えられる。青空文庫で過去の用例を調べてみても、多くの場合で「平仄」の語は「漢詩の構成」を指す術語として用いられていた。
特に、「平仄を合わせる」と言えば、もっぱら「漢詩を作る(ために、その構成をあれこれ試行錯誤する)」ことを表す、きわめて限定的な表現だったようだ。

国王(こくわう)の作つた詩といふから、結構(けつこう)な物だらうと存(ぞん)じて、手に取り上げますると、王「どうぢやな、自製(じせい)であるが、巧(うま)いか拙(まづ)いか、遠慮(ゑんりよ)なしに申(まう)せ。シ「はゝツ。とよくよく目を注つけて見ると、詩などは円朝(わたくし)は解(わか)りませんが、韻(ゐん)をふむとか、平仄(ひやうそく)が合(あ)ふとかいひますが、全(まる)で違(ちが)つて居(を)りまして詩にも何(なん)にもなつて居(を)りません。
『詩好の王様と棒縛の旅人』三遊亭円朝
ははあ、これは珍しい。婦人で、才気ある婦人は必ずしも珍しいとはしない、三十一文字(みそひともじ)を妙(たえ)なる調べもて編み出し、水茎のあとうるわしく草紙物語を綴る婦人も珍しいとはしないが、婦人にして漢詩をよくするという婦人は極めて珍しい。
それにしても、ただ単なる奥様芸で、覚束なくも平仄(ひょうそく)を合わせてみるだけの芸当だろうとタカをくくって見ると、なかなかどうして、頼山陽を悩ませた細香(さいこう)女史や星巌(せいがん)夫人、紅蘭(こうらん)女史あたりに比べて、優るとも劣るところはない、その上に稀れなる美人で、客を愛し、風流の旅を好む、以前は江戸に出て、塾を開いて帷(い)を下ろして子弟を教えていたが、今は仙台に帰っているはず、ともかくも、あれをたずねてみてごらん――全く才貌兼備、才の方は別としても、思いがけないほど美しい婦人だから、その用心をして――
『大菩薩峠』白雲の巻・中里介山

さて、ここまでの長い解説をもってして、私がある時Twitterでこんな投稿を見かけたときの驚きが、皆様にもお分かりいただけるかと思う。

さあびっくり、「商社」とあるからにはこの方はおそらくビジネスかなにかのお話をされているのだろう、しかし「平仄を合わせよ」「平仄だけでなく意識の持ちようも大事」などといきなり漢詩論のような話が始まってしまった、しかも主題は「資料の平仄」ときている。

実は私がビジネスに疎いだけで、最近のジャパニーズ・サムライ・ビジネスマンの知られざるトレンドはちょっとした会議資料の片隅にも小粋な漢詩を一首添えるほどの心配りと余裕だったりするのか。たまにある異動や出張で向かう先は、やはりとかとかがメジャーだったりするのだろうか。

…などということはなく、これは「資料の日付など、内容のつじつまを合わせる」「文体や書式など、文書の体裁を統一する」ことを指すビジネス用語なのだそうだ。銀行・コンサル業界などで頻繁に用いられ、元は霞ヶ関用語に端を発するらしい。

平仄 (ひょうそく)
つじつまや条理という意味。コンサル業界において、「平仄を合わせる」、「平仄をとる」というときには以下を表している。
①複数の資料のつじつまを合わせる。矛盾がないようにする。
②複数の資料の体裁、書式、文体を合わせる。
平仄とは - コンサルティング用語集

うーん、「そういう用語なんです」と言われれば、そう認めるしかないのかもしれない。実際、元は霞ヶ関で使われていたと言われるとちょっと納得しそうになる。たぶん当時のお役人がたは、漢詩文化の背景も承知のうえでそういう言い回しを使っていたのだろう。しかし、それが現代のビジネスマン、しかも特定の業界のみの間で通用しているというのは、なんというか…

偏見かもしれないが、ある一人のどこぞのイケてる社長さんか誰かが、あるときなんとかの一つ覚えでちょっと聞き齧った「平仄」という、いかにもかっこいい用語を「言い回して」みたのが、たまたまその会社や業界でウケちゃって、以後伝言ゲームに次ぐ伝言ゲームで「言い回され」続けている…なんてこと、あったりしないだろうか。

ここまで考えて、こういうことを言うのはかなり性格が悪い人間のやることだな、と再確認し、自分が嫌になってしまった。
元ある用語を「言い回す」ことは、単に無知と切り捨てられるものでもないし、実際どういう人間がどういう意図でその表現を「言い回して」いるかがわからない以上、むやみにあれこれ言ってどうにかなる問題でもないような気がする。

だいたい、世間で何かが「言い回されて」いるような会話は、ほとんどが用語の正確さを期する「議論」の場ではないのである。画面を通せばなんでもかんでも「議論」「ディベート」になってしまう世の中に、我々は生きているけれど。

でも、自分がよく知っていて大事に考えている分野の概念が、軽い認識で「言い回されて」いるのを見たときに、カッと何かが込み上げてきてしまう気持ちもわかってしまうので、難しい。

何かが「言い回され」すらしないほど、誰からも興味や知名度を持たれないよりは、よくわかってないけどかっこいいから「言い回されて」いるほうが、実はいいことなんじゃないか。最近はそう思うことにしながら、こわごわそれっぽいことを「言い回し」続けている。だって、それが「言葉る」ということじゃないか、なんて強がりながら。

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