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棘
人を傷つけずに生きていくことは、人間には不可能なのだろうか。わたしのように感受性や共感性に著しい欠陥があり、人間としての感情や道徳が欠損している人間でも、人を傷つけることは苦痛である。反面になぜ平気で人を傷つけれられる人間も、同時に存在しているのであろうか。
なぜ
なぜ
言ってやったぜ!と思ったりするのだろうか
言えちゃうあたしかっこいいべ!みたいな
ズバッと言える俺ほんとサバサバ系!みたいな
思っていたりするのだろうか。人を傷つけることを優れた能力だと思うことは愚かである。確かにあなたの言葉は鋭いナイフであった。鋭いナイフで肉もまな板も天板もアイランドキッチンまでズバッと切れちゃったら、もはやその言葉の鋭さは優れたものではない。扱いきれない凶器である。
言葉を上手に使うということは、いかに鋭いナイフを持つかではない。いかに対象に合わせた鋭さのナイフを持てるか、そしてそれをちょうどよく使うかなのである。
刃物を研いで研いでとにかく鋭くすることは、ぶっちゃけ誰にでもできる。傷つけるための武器を作るのは、簡単である、悪意さえあれば。
上手い言葉、上手い文章というのは存在する。尾を引くようにその言葉が頭に残って、あるいは喉にゴロつくようにその文章が心から離れなくて、どうしても何度もそこに吸い寄せられてしまう文章というものはある。
上手い文章は小さなバラのトゲのように、あるいはミツバチの針のように、それ自身の核となる部分にちくりと小さなとんがりを持っている。その部分が渾身の力でわたしを刺して、じわりじわりとわたしの意識を引き込みにくる。刺されたわたし自身にすら気づかないほど小さな傷で。
相手の心臓を刺し貫いてしまうほどの強すぎる言葉は、確かに尾を引くようであるけれど、それは尾を引いているのではなくて歩いた後に血溜まりを引きずっているのである。こんなに苦しくて痛くて辛い尾はない。
強い文章を用いて相手を傷つけ、それで相手の心に残ったとして、それが致命傷になるのでは元も子もない。