20220112 矛盾の二冊
朝、カーテンを開けると雪。雪の日の外は明るい。地面や屋根は明るいのに空は暗くて、世界が回転したみたいな、だまし絵を見ているみたいな感覚になる。
銀行とスーパーへ行き、帰宅。二回目の洗濯機を回す。ブロッコリーを買いたかったのに棚は空だった。スナップエンドウ、さやえんどう、インゲンが同じ値段で売られていて、スナップエンドウを選ぶ。
私は本が好きだけれど、みんなもっと本を読めばいいのにとは思わないし、この本は読むべし! とかも思わない。読みたいひとが読みたい本を読めばいいと思っている。でも、全然本を読まないという人と、多分仲良くはなれないと思う。仕事仲間がそういう人だと、ちょっと嫌だなというのが本音だったりする。それも「本とか見てるだけで眠くなっちゃう」とか自分から言ってくる人にはぞっとする。でもそれは私が「運動とか全然駄目で」と言うのと同じことなんだろうなとも思う。
それから、趣味は読書と言いながらビジネス書ばかり読んでいる人もちょっと信用したくない。読みたい人が読みたい本を、なんて、よく言うよ……
そしてさらに矛盾は続くのだけれど、本棚に並べたくもないような題名のビジネス書や自己啓発本よりも、この本を多くの人が読めば世界が少しは変わるんじゃないか、と思う本が二冊ある。
一冊は大橋鎮子『「暮しの手帖」とわたし』で、もう一冊は筒井ともみ『舌の記憶』だ。この二冊を読むと、私たちは大切なものを手離してしまったんだなあと思う。失ったり、奪われたわけではない。手離してしまったんだなあ。それは不注意かもしれないし、契約や取り引きかもしれない。
今世の中は多様性を謳っているけれど、なんでも受け入れるばかりではなく、きちんと折り合いをつけること、正しく拒むこと、むやみやたらに手を伸ばさないことも大切だと思う。本当に大切なことをきちんと胸の中に持って、静かに静かに生きることが、どうやら私たちには難しいようだ。
『舌の記憶』は最後の『金平糖とトシちゃんの白い抜け殻』がどうしようもなく辛い。辛いなんて言葉ではおかしいのだけれど、言葉にならない。現代を生きる自分がどんな文章を書いても、どんな物語を紡いでも、何の意味もないと思ってしまうような一編だ。