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Autistic(ASD)側がモラハラを「受けてしまう」件について。
令和6年10月14日の、HOTASさん(@HOTAS10001)とのスペースを、遅ればせながら振り返ってみようと思います。だいたい半年ごとに開催することが、結構長く続いていますが、何回目でしたかね(と毎回言っている)。
スペース概要
HOTASさん側の振り返りは、以下から始まる4記事、です。
テーマはこちら。
Autistic とそうでない人たちの関係。
加害/被害/対等、何がどうやって決まるのか、変更の可能性はあるのか
録音はこちら。
— あずさ (@41azusayumi) October 14, 2024
HOTASさんの話は、とくに仕事においてAutisticが「加害」側になってしまう話でしたが、わたしの話は、とくに家庭においてAutisticが「被害」側になってしまう話でした。
離婚の背景のモラハラ(たぶん)
最近離婚したんですよね、わたし。その理由のひとつはこの、モラハラかどうかはさておき、「わたしがいつも責められる側であった」という、「被害」の問題でした。元夫は定型、わたしはAutistic。ちまたで言うところのカサンドラとは、性別も、加害/被害も逆ですね。
責められる、というのは、元夫からみて、わたしが、
・ 間違っている/できるはずのことができない
・ 弱い立場である
と判断されたから、であると考えられます。
Autisticであるお前は間違っている(?)
定型/Autisticであることは、間違っている間違っていないにはかかわらないだろう、というのは、理論的にはそうです。しかしここで、多数派/少数派の問題が顔を出すんですよね。夫婦ですので一対一、それにもかかわらず、多数派に属している側/少数派に属している側で、多数決が行われてしまうわけです。定型の自分の主張は世の中で認められている主張と同一である、よって自分が正しい、みたいな感じです。
わたし自身としてははできるかぎり「納得」を重視したい、しかし、立場が弱いと、その理不尽な多数決を受け入れざるを得なくなります。
できるはずのことが、できない
誰にだって、得意不得意はあります。そして、練習や工夫によって、その不得意を克服したり、避けて通って目的を達成することも、できる場合があります。しかしながら、Autisticという「障害」があり、自分の不得意がその障害と関連づいている場合、「できない」という決めつけが発生して、そして「できない」が固定されてしまうケースがあると思うんです。
わたしはAutisticですが、それに加えて協調運動障害(DCD)があります。なんでもかんでもできないわけではなく、視覚で修正できる動き(たとえば字を書くこと)に支障はありません。しかしながら、視覚で修正できない動きは非常に苦手です。ダンスなどの腕や脚を大きく動かす動きや、じゃがいもの皮むきといった不定形のものを感覚で修正しながら扱う動きですね。
本来は、じゃがいもの皮むきができなくても、じゃがいもの皮むきを伴わない料理はできるはずです。実際、いまのわたしは、問題なく自炊して生活しています。しかしながら、離婚前は、料理全体ができないことになっていましたし、させてもらえませんでしたし、やろうとしてもできませんでした。
暗示って怖いですね、はそうなんですけれど、これ、HOTASさんのときどきいう、「みなしできる」「みなしできない」も関わっている気がするんですよね。普通の人ができるじゃがいもの皮むき「すら」できないということは、料理全体について、何もできないに違いない、というわけです。
まず、「普通は」できるはずのじゃがいもの皮むきができないお前はおかしい、DCDなる障害と関連しているということは、「普通」の人ができることができないという劣った存在である証拠だ、となります。そしてそれが、じゃがいもの皮むきだけではなく、台所仕事全部に波及するわけです。責められるだけでなく、からかわれたり笑われたりする。母の教育まで否定されました。できるってば、ですけどね。いまは。いまは、ですよ。
背景にある、立場の弱さ
立場が対等であれば、多数決で少数派に属しているとして否定される必要はないだろうと思います。立場が対等であれば、できないことはお互いにカバーすればいいよね、ということになろうと思います。合理的配慮もこの考えでしょうか。
しかしながら、立場が対等でなかったら、多数決が通ったり、できないことで責められたりするわけです。
一つは、Autisticが「障害」であること自体、です。健常者と障害者。本来は対等であるべきである、という理想論はさておき、困っていない人と困っている人、助ける側と助けられる側が固定してしまうと、立場を対等に保つのはとても難しい。上記の通り実際に「普通の人」ができることができない、ことが多発していると、上下が発生してしまいがちです。
なお、わたしのケースにおいては、男性と女性、というのもあったと思います。男女平等、はそうなんですけれど、社会はそうだとしても、一対一の関係に社会常識を持ち込むのは、かならずしも容易ではない。わたしも元夫も昭和50年代生まれで、それぞれの両親は昭和20年代の生まれでしたから、昭和の文化も引きずっていたと言っていいと思います。
救いだったのはわたしが仕事をしていて、収入と社会的な役割について、元夫と対等だったこと、でしょうか。これが、養う側と養われる側として固定していたとしたら、もっといろいろたいへんだったはずです。
カミングアウトの危険性
これ、夫婦間だけではなく、たとえば職場でも起こりうることだと思うんです。意見の対立があるときに、Autisticという少数派/障害者であるからという理由で、意見が通らなくなる。何かができないときに、Autisticと関連付けられ、あれもできないこれもできないと決めつけられる。場合によっては、「Autisticという障害はこういうことが苦手だと読みました」と決めつけられる。障害者であるということで、立場が弱くなる。
得意不得意を知り、対策を立てるために診断と自己認識が有用であることは論を待たないと思います。しかしながら診断を周囲に伝えるのは、上記の通り、危険がある。
障害があるんだから合理的配慮を受ける権利がある、だから障害をオープンにするんだ、というのもそれこそ「合理的」な判断なのかもしれません。そうはいっても、もし可能なのであれば、障害どうこうではなく「こういう配慮があれば/工夫を許可してもらえば、パフォーマンスがこれだけ上がります」という交渉ができるのであれば、そのほうがいい。
あとがき的な
Autisticであることで、加害側にも立ちうるしまた被害側に立たされもする、そのメカニズムと対策についてのスペースでした。障害があっても対等であるべきはそうだとして、その対等さを保つことの難しさも、理解できたように思います。
HOTASさん、有意義な時間をありがとうございました。次のスペースも、楽しみにしています。