やさしさしか通用しない
私はいま、「やさしさコンテンツ」が求められていると思っている。
なにかといえば人の揚げ足取り、批判をする人が増えているように感じる。時代が混沌としているから、大衆は不安だし我先にと奪い合う。
生存競争としては、正しいあり方なのかもしれない。
マイノリティな私は、たとえ多勢に無勢であろうとも声を上げ続ける。
こんな時世なので成功した人やうまく事が進んでいる人、成果が出た人に対して全力で賛辞を送り、自分ごとのように喜ぶことを実践しようと思う。
私は自身が周囲にふりまくやさしさを、踏みにじられて相手からなめられているのではないかと思うことが多々ある。
その都度、腹の中から黒い感情がにじみ出てきて、毒舌(案外、口悪いんです)をマシンガンのようにぶっ放したくなる。
いや、ぶっ放してしまう。
言葉の暴力という表現があるが、まさにそのとおり。
自分の方向性を確立させて、突き進んでいくにあたって「やさしさ」はキーポイントになるのではないかと最近強く思う。
みんなが小石を投げることを選ぶなら、私は投げない方を選ぶ。カッコいいことを言うなら、たとえ投げないとやられてしまうような場合でも、あえて投げられる側に立ち続けていたいものだ。
人にやさしくするってそんなに難しいものなのかな。
おそらく、みんなやさしくされたい気持ちを持っているのではないだろうか。「甘えるのは嫌だ」とか「傷のなめあいだ」とか言うかもしれない。
でも、それは目に見える表面上の世界の出来事であって、心の底から「やさしさなんていらない」と思っている人はいるのだろうか。
同郷の福岡出身の起業家、家入一真さんが、このようなツイートをしていた。私は僭越ながらも「さすが家入さんだ」と思い、引用リツイートでツイートした。
これについて議論を交わしたいという気持ちもあったのだが、悲しいかな家入さんご本人からしか「いいね」をいただくことはなかった。
もちろん、家入さんからいいねをいただいたことが悲しいわけではない。
私の発信力、影響力の乏しさを実感し現実を突きつけられた部分である。さすがはマイノリティを自負するだけある。
家入さんが「やさしさ」という言葉をよく用いて表現をしている。私もおこがましいがこれからは『やさしさしか通用しない』と思っている。
ただ、やさしさの定義って難しい。家入さんはそのあたりを繊細に指し示している。
2年前ちょっと前に、「やさしさしか通用しない」というハッシュタグをつけてこのような投稿をしていたことを思い出した。
アイツムギの歌詞でこのようなフレーズがある。
強さの意味を 違えてないか
守ることで 奪ってないか
勝ろうとして ひざまずかせて
あなたに一体 何が残ろうか
やさしさとは強さ。
強い気持ちをもって、やさしさを貫きたい。
それでは、今回はここまで。