朝霧の向こうに
ライン川を抱く大地から、立ち籠める霧で前が見えなくなる朝が多くなった。
もう秋なのだと気付く。
ライン流域であるこの地方は、ワイン産地としての北限でもあり、家の近くには所々に葡萄畑が広がっている。
ライン川による反射熱と霧が、葡萄を育てるのだろう。夜になり急激に気温が下がって、日中に温度が上がる日は朝起きると濃い霧が生まれている。
霧が出た日はお天気になる合図だ。
濃い霧に包まれた薄暗い朝が嘘のように、カラッと晴れ上る。
その霧の濃さは、数メール先が全く見えなくなるほどで、山の上にある家から霧の中を車で下るのは緊張する。
若かった頃に漫画で「霧の都ロンドン」を知り憧れたことがあった。
もっともロンドンがそう呼ばれた時代は、産業革命による石炭の煤煙が原因で「霧はスモッグだった」と後に知りがっかりしたんだけど。
それでも霧の向こうには、シャーロック・ホームズやディケンズの世界が見えるような気がして「霧ってどんなだろう?」と好奇心でいっぱいだった。
だからか “濃霧”や“ミルク色の霧” “霧に包まれる”という表現に心惹かれてきた。
ここで初めて霧の風景に出逢えた時は、心の中でわぁっと声を上げた。
慣れてしまえば運転に不自由で、あまり歓迎できないのだが、霧には景色を一変させるような力を感じる。
陰鬱さと神秘性を内包し、霧の向こう側に何かがひっそりと眠っている様な、ぼんやりとした自分の心の奥底に触れる様なそんな気持ちになる。
中学の頃、里中満智子の「天上の虹」(持統天皇物語)という漫画と出会い、長らく愛読していた。
その中で知った万葉集、柿本人麻呂の挽歌の最後がいつまでも心の何処かにあった。
寂しみか 思ひて寝らむ
悔しみか 思ひ恋ふらむ
時ならず 過ぎにし児らが
朝露のごと 夕霧のごと
ドイツの地で霧を見て思い出したりする日。
人生とは不思議なものだと、想いが霧の向こうに膨らんでいく気がする。
意味
秋山のように美しく照り映える乙女、なよ竹のようにしなやかなその子は、何を思ったのか、栲縄のように長い命であったはずなのに、露ならば朝に降りて夕方には消え、霧ならば夕方に立ち込めて朝にはなくなるというが、そんな露や霧でもないのに、はかなく世を去ったという。
それを聞いた私でさえも、乙女を生前ぼんやりと見過ごしていたことが悔やまれるのに、ましてや、手枕を交わし、身に添って寝たであろう夫君は、どんなに寂しく思って一人寝ていることであろうか。
思いもかけない時に逝ってしまったその子は、美しくもはかない朝露のよう、夕霧のようだ。
ペストは人類史上最も死亡者が多いパンデミックを引き起こし、中世ヨーロッパでは半数以上の人口激減をもたらしたと言われている。
致死率も非常に高く、抗生剤など無く原因もよく解らなかった時代、どれほどの脅威であったか...今、現代の疫病禍を生きてみて初めて思い至る。