『シン・エヴァンゲリオン劇場版』感想 ※ネタバレ注意
公開から1週間弱、ようやく映画館へ足を運ぶことができた。
全ての時間がエヴァ
(「名作」と呼ばれる本などのメディア全てがそうであるが、)「映画を見ている間」「本を読んでいる間」だけが楽しい時間ではない。
「最新作の映画の155分がエヴァンゲリオン」なのではなく、「あれこれ展開を予想する」のも「終わってからあれこれ感想を言う」「評論サイトを周って読む」も含めてエヴァンゲリオンというか。
エヴァは考察の余地を幅広く用意しているためか、時間をかければ広く深くできて、他の作品よりもその傾向が顕著だと思う。賛否両論あってのエヴァ。それで監督が鬱になった要因もあるとは思うが、そういう人たちこそがコアなファン層にいて、旧劇や新劇など作られた要因の一つもあるとは思う。
「好きの反対は嫌い、ではなく無関心」 アンチも常に関心を寄せているのがエヴァンゲリオンだと思う。「陳腐だ」「くだらない」「つまらない」と言っている人達が、公開後1週間以内には映画館に行って、自らの貴重な人生の時間を費やして、長々とnoteを書いているのである。「続きは有料」にしている(金儲けをしている)人すらいる。
虚構と現実
「アニメ(虚構)と現実」というのも、ずっと掲げられてきた(表向きでなかったにせよ)テーマだとは思うが、今回も当然そう捉えられる場面はあった(ラストシーンも)。アンチが攻撃的になるのは、やはり図星だからなんだろうと思う。普通なら距離を置くはずである。
Qでも一部で話題になっていたが、ヴンダーや護衛艦隊を”吊るすようなピアノ線”があるという分析があった。そして今回はネタばらしかのように、あからさまにスタジオの裏を映し出す。最早、どこまでが誰の意識の中なのか、今どこにいるのかすら分からなくなる。渚指令と加地さんがいるのはどこなのか。
時代とエヴァ
アニメの第一話が放送されたのは、1995年10月4日。自分も大多数の方と同様、再放送だかビデオだかになってからだ。あまりに遠い昔なので、はっきりは覚えていない(笑)
エヴァの分析で腐るほど書かれたであろうが、やはり「バブル崩壊」「阪神淡路大震災」「世紀末」「オウム真理教」「ノストラダムス」とか、独特の重苦しい世の中の空気があった。そして孤独感。
今でこそ「自己肯定感」をテーマにした書籍、特に育児方面ではよく見るが、このアニメこそ先駆けではないか。シンジを取り巻く人たち、親(ゲンドウ)とはもちろん友人(トウジやケンスケ)や、同僚(レイやアスカ)・上司(ミサトさん)などとのコミュニケーション。
自分もそうだったが、10代特有の焦りなどをシンジに重ね合わせていたのだし、そういう人が多く共感を多く集めた。「理解されないオタク」というのも当然そうだ。
今作で学生時代のゲンドウにも、大いに共感できた(笑) イヤホンをして外界とを拒絶するのは、大学時代の自分そっくりである。プライドが肥大化し、傷つくのが怖い。自分から話しかけることが少ない。でも友達が少ないとぼやく。
年上のエヴァ、年下のエヴァ
小説とかも同じではあるが、やはり「読者のその時の年齢」によって左右されることはよくある。
エヴァを昔から見ている人というのは、おそらく今の40~50代が中心だと思う。そうなるとシンジくんたち14歳の少年少女というのは、ほぼ年齢が近い共感しやすいキャラたちだ。レイやアスカに、そしてカヲルに恋してしまう人もいた。
劇中ではさらに14年経ったりもしているが、シンジやアスカが年を取らないというのは、当時も言われていた「アダルト・チルドレン」の隠喩ともとれる。等しく年を取らないという虚構の世界でもある。
旧劇、新劇と時代を経て、エヴァが好きなまま大きくなった私達。製作に時間を経たのは、製作意欲としても、パチンコ収入を経ての経済的理由からもあったとは思う。新型コロナによる延期もそうだが、それだけの時間を経たことで、想いが醸成されたというは言い過ぎではないだろう。
記事になっていたが、SNSで「ネタバレしないようにしよう」という動きは、やはりそういうファン心理をお互いに気遣おうという連帯意識があってのもので、これは他の作品にはあまり見られないことだと思う。
年齢を重ねたからこその感想
少し話を戻すと、自分もミサトさんたちの年齢を越えて、妻や子供、つまり家庭を持つようにもなった。今作のゲンドウがシンジを抱きしめた場面で、自分は不覚にも泣いてしまったのだが、それは「作品を追い続けて、ゲンドウの心情を察した」だけでなく「自分が父親になったからこそ」の思い入れというか、感情が溢れ出てきたのだと思う。
斜に構えて見ていたならば、「ゲンドウがシンジを抱きしめた」くらいでは泣くはずがない、それこそ「陳腐な表現」と言う人もいるとは思う。
トウジやケンスケが出てきた場面でも、「現実に彼らと一緒にいたわけではないのに」同窓会のような雰囲気というか、ホッとしたような感情が出てきて少し泣きそうになった。加地の息子が出てきた時もそうだ。これこそ「虚構の中にいる自分」である。
ラスト30分などは、「今どこにいるのか」分からない、重ねられた虚構の世界。しかし、どれも正解じゃなくても構わないのである。
レイ派、アスカ派、マリ派
キャラが際立っていたエヴァでは、やはり「誰が一番良いか」のような話が当然出てくる。ドラクエで言う「ビアンカフローラ論争」に近い(笑)
一緒に観に行った友人が「何でアスカではなく、ポッと出てきたマリとなのか」と憤慨していたのだが、これは人生に似ていると自分は感じたのだ。
入場前に渡された、1枚の封がされたアスカのポストカード大のパンフ。裏には「ネタバレ注意」とあり、中には色んなエヴァ・ワードがリスト化されて、深掘りを進める代物だと思う…のだが、この表紙がアスカであることに意味があるのだと思う。
これは「遺影」なのではないか。本編を見ていくと、「あなたの愛したアスカもまたクローンでした」と。もちろん元々、虚構ではあるのだが。当時は「これはただの絵だ」というのが流行ったのを今思い出した。
現実における「結婚」もまた人生における「ルートの一つ」であり(ルートとは、度々出てくる"電車"も隠喩の一つだろう)、レイと結ばれるルート、アスカと結ばれるルートもある。しかし学生時代にお付き合いした人と結婚した人の方が、事例としては少ないのではないだろうか。
自分は結婚1年前に知り合ったような女性とだ。外から見たら、それこそマリレベルで「え、そんな絡みのない人と結婚することになったんだ?」というのが大多数だと思う。庵野監督も同郷の人ではなく、安野モヨコさんと結婚している。
前半の「鈴原トウジと洞木ヒカリの結婚」というのが、分かりやすい対比となっているのも興味深い。
色々と考えながら、今回のポスターを見ると、しっかりラストシーンの駅の状況を表現していることに気づく。
向こうのホームにレイとカヲルがいたし、シンジと一緒になったマリは「勝利の?」万歳をして、アスカは一歩離れて不機嫌な表情をしている。旧劇のシーンを想起させる場面があったが、シンジの「好きだった」という過去形であり否定ではない。
そして宇部新川駅から駆け出すシンジとマリ。これも「陳腐」と言う人も多いようだが、やはり「エヴァという虚構」から、現実へ抜け出すという表現なのだろう。電車という決められたレールも良いが、自由なのも良い。
「破」の後に出てきた次回予告の、ラクダを連れた旅人姿のゲンドウと冬月先生(実際に使われなかったヤーツ)。これくらいの自由さもまたいいのかもしれない。
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