移住してみて目からウロコだったこと(前編)
1. ライフラインに関するウロコ落ち
都市ガスは都市にしかない
引っ越しすると色々手続きが待ち受けている。
ガス、水道、電気の開通や、ゴミの日の確認などなど。
都会の手続きと田舎の手続きでは少し事情が違うのだ。
電気は全国共通で、東電が関電になるか中電になるかだけ。しかしガスは都市と田舎では全く事情が違っていた。
当たり前のように使っていた都市ガスは影も形もなく「プロパンガス」が唯一の標準。私はプロパンガスというものが今の時代に使われていることにまず驚いた(知らなかっただけ)。
同時になぜ「都市ガス」というのかも理解した(都市だけのガスなんだ)。
ガスを使うには必ずプロパンガス会社に申し込まなければならない。しかもほぼ1社独占だ。何社も競合するほど田舎には会社がない。
そして多くの人がガス代の請求書に目をむくことになる。
明らかに都市ガスより高額なのだ。しかも定期的にプロパンの交換が必要な点には注意が必要だ。
薪ストーブが選択肢に
日本の森林率は67%と言われており、山あいの田舎に行けば林業を営んでいることが多い。林業関係者にとって木の調達などお手のものだ。
山村に移住した私も集落のあちこちに木が転がっているのを目にした。
移住者の間では、ガス代が高いからという理由からかどうか、必ず薪ストーブの話題が登場する。私もその噂を聞きつけて興味を持ってしまった。あったかくて一度使ったら手放せないなんて、魅力的!
しかし燃料となる薪が意外に高価だと判明した時点で薪ストーブへの希望は絶たれた。
そんな私の心痛を察してか、地元の人(林業関係の人)が木を分けてくれるという。なんとありがたいことだ。喜んで涙を流しながらホームセンターへ直行した。
そう、ホームセンターで普通に薪ストーブが売られている。田舎恐るべし。という成り行きでわが家に薪ストーブがやって来た。
暖房効率は半端なく「あったか〜い」と何度も叫んだ。
以後、頼まずとも定期的に薪が家の前に転がされた。ただし、長い丸太の状態で。
おかげで私はチェーンソーの技術を身につけ、斧で薪割りをする、というおまけまでついたのだ。
水道代がただ?
これも山村に特有のことだろう。流し台には蛇口が3つ並んでいる。
水に、お湯に、ん? もう1つは一体何だ? 庭にも謎の蛇口が設置されていた。ひねってみる。
普通に水が出るのだが、、、う〜ん分からん! 近所の人に聞いてみた。
「それは山の水だ!」
「山の水?」
山からは湧き水が出ていて、それを大きなタンクにプールして、そこから各家庭に配管しているというのだ。
何と! 自宅にいながらにして湧き水が飲める? エクセレント!ではないか。
ますます気に入った。
山の水は地域の人たちが自主的に活用しているので公共水道ではない。私が住んでいた地域では使い放題で無料だったが、有料にしている地域もあった。
初めて山の水で飲んだコーヒーはイオンで買った安いドリップだったが、スタバくらいのに味にグレードアップした(ように感じた、ホント)。
喜んだ私たち家族は、水道水はほとんど使わず、生活用水を山の水で代用した。ところが集落に馴染んでくると意外な事実が分かってきた。
地元の人は山の水を食用や飲料に使ってないのだ。
よく聞けば、若い人がいなくなり、定期的に行なっていたタンクの清掃がままならないということだった。
それなら私が、と威勢よくタンクを見に行ったが、3メートル四方もあるコンクリート製の大きなタンクが長年手入れされずに苔や汚れにまみれていた。。撃沈!
こんなところにも高齢化問題が潜んでいるのだ。
2. 自然に関するウロコ落ち
ほどよい自然などない
「やっぱり自然っていいよねぇ」とよく聞く。いや、私もよく言っていた。けれどもそれは人間にとって都合がよい「ほどよい自然」を指している。
「ほどよい自然」はもはや自然ではない。自然はほどよいどころではない。自然が厳しいことは、自然によって引き起こされる災害などを見れば明らかだと思う。
自然の中で暮らした私は「自然とは畏怖すべきもの」という教訓を得た。「自然っていいよねぇ」とか「ほどよい自然」とかいうのは人間が感じる主観なんだと思う。
自然は人間に配慮してくれないから自然なんだよ。よくも悪くも自然法則そのままに振る舞ってくれる。
そんなものは人間にコントロールしようがない。まして征服なんてできるはずがないのだ。
自然に対して正しく「畏敬の念」を抱けば、その先に自然との「ちょうどいい関係」ができるのかな、と期待してしまう。
何だかモワッとしてうまく説明できないけれど、私は自然からこんなことを学んだ。
ゴキブリなんてかわいいもの
虫が好きな人はいない(恐らく、マニアは除く)。
田舎で暮らすと毎日必ず虫に遭遇する。というより虫が住んでいる中に人間が住んでいると思えてくる。
そんな虫の中でも害虫の王者といえば何といっても「ムカデ」だ。都会でゴキブリに騒いでいた頃が何ともかわいく懐かしい。
ムカデはなぜか「出る」のだ。どんなに対策しても、意表を突いて出現する。多くの場合、被害者は夜寝ている間に噛まれる(正確には刺されるとも)。
噛まれると毒を注入されて皮膚は腫れ上がる。致命的な毒ではないのがまだ救いだが、寝込みを襲うとは何て卑劣なんだ。
地元の人にとってもムカデは厄介者だ。しかし、そんな害虫の王者よりもまだ上手がいる。
「スズメバチ」と「マムシ」だ。致命的な毒を持っている点でムカデより恐ろしいが、屋内で遭遇することはないし、寝込みを襲われることもないのでまだ安心だ。
私が見たスズメバチの最大は5センチを超え、マムシには2度襲われた。田舎で暮らそうと考えている人は頭の片隅に入れておいた方がいい。
刺激がないグリーンとブラウン
緑は目が癒されるらしい。家の前に広がる一面の緑は心安らぎ魂も静まる。実際私も癒されたので間違いない。
しかし何事においても人間というものは飽きてしまうのだ。
田舎で何年か暮らしていると何か刺激が足りないと感じてくる。感性欠乏症と呼ばれる(命名は私)。そこで治療のため都会へ出る。
するとファッションやインテリアショップに並ぶグッズの色鮮やかさに衝撃を受ける。特に赤や黄色は乾き切った感性に染み入ってくる。
そこで気づかされるのだ。田舎には赤や黄色はないなぁ、と。実際には田舎にも色んな色は存在しているが、全体を支配している色は圧倒的に緑と茶色なのだ。
なるほど、緑や茶色が落ち着き、癒されるというのは本当だ。逆に言えば刺激が少ないということになる。
世間に「ワーケーション」なる働き方があるようだが、このような色に対する人間の刺激の事実から考えると、田舎がクリエイティブな仕事に向いているとは一概に言えないと思う。
アウトプットにはよい環境かも知れないが、インプット環境としては致命的だというのが実感だ。
3. 近所づきあい関するウロコ落ち
野菜は配られるが食べきれない
「近所から野菜が届く」という話は聞いていた。期待にそぐわずその通りだった。しかし届く野菜といえばその時々に採れる季節のものなので同じものばかりなのだ。
きゅうりの季節にはきゅうり、トマトの季節にはトマトばかりといった具合いに。
毎日同じものばかりを食べ続けているとおかしくなってきた。そして結局それ以外の野菜はいつも通り買いに行くことになる。
考えてみれば当たり前の話だが、温室栽培をやっているわけではないので、きゅうりの季節に大根を作っている人などいないのだ。
都会のスーパーで買い物をする感覚に麻痺してしまっていた。いつでも何でも揃うというのは田舎では幻想に近いのだ。常に何かが足りない。
でもその足りないところを埋めていくのが人生、なんて考えると都会では味わうことができない暮らしができるのもまた田舎のよいところなのである。
ジビエは地元の人も食べない
獣害問題は全国的に深刻だ。住宅地で熊に襲われるニュースを毎年のように見るが、山あいの田舎では日常的に鹿や猪が出没する。
実際に暮らしてみると、出没というよりもはや近くに住んでいるという感じだ。
住んでもらうだけなら問題ないが、なぜか人の畑に無断で入り、そこで食事をされるので放っておけなくなる。
農家さんや野菜を生活の糧にしている人たちにとっては笑い事では済まされない由々しき事態なのだ。
そこで獣害対策として猟友会なる団体が活躍する。要するに猟師が鹿を撃つのだ。
ところが撃ったはいいけど年間に何百頭以上も狩猟するため、その処分に困ってしまった。
考えた末に「それなら食べてしまおう」ということになり、その発想がジビエブームにつながった、というのが実態だ(少なくとも私にはそう見えた)。
それでも地元の人たちはジビエなど食べない。そんな習慣は昔からないからだ。
獣害のため処分した鹿や猪を、観光客にジビエ料理として提供できれば地域産品としても活用できるではないか、という狙いのようだが、実際にはそんなにうまくいっていない。
お返しは現金のことも
田舎の慣習は複雑で分かりにくい。「野菜が配られる」「お菓子をいただく」「何かを手伝ってもらう」など、やっぱり田舎は人間味があるなぁと感激していた。
しかし助言をしてくれる人いわく「お返ししてるか?」と。
地域の風習は「Give & Take」だったのだ。表面的にはお返しを拒む。「そんなことしなくても」「気を遣わないで」と。でもこれに騙されてはならない。
そう、いかにも日本的だったのだ。
明文化されたルールはないが、「野菜をもらえば野菜で返す」「お菓子を貰えばお菓子で返す」「手伝ってもらえば〇〇円」などと教わった。
えっ、お金?
そうなのだ。私が住んでいた集落では内容によって3千円から5千円を包むという慣習が堂々と残っていた。
そして人目を避けてこっそり渡すのがミソらしい。そんなもの気づくはずがない。感激していた自分が恥ずかしくさえ思えた。
人間味とは実にシビアなものだった。
by コハク
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