電車が運ぶ追憶
ゴーストタウン化した京都を見たら、仕事があるだけ自分がマシに思えてきた。
緊急事態宣言中に営業している飲食店が叩かれることはあっても、何故かコールセンターは叩かれることが無かったからだ。
夜の街、飲食店、カラオケ屋、こうした産業が世間から叩かれる中で何故か叩かれないコールセンターという仕事に不思議さを感じていた。
コールセンターというのは謂わば喋るのが仕事だ。
ブースとブースの間は狭く、常に喋ることになる環境は正に毎日カラオケ大会をするのも同然と言って良い。
それも密着状態にあるのだから、1人でも感染しれば拡大しないはずも無かった。
正社員だからお飾りながらもSVをやっている私は多少、オペレータとは距離もあるし、喋る量も少なく済む。
ただ、オペレータ間は密着状態だし、コロナが伝染る心配をする人は多かった。
「それでも今は仕事に就けるだけマシや」とみんな思っている空気は充満していた。
飲食店に対する休業要請はされたものの、チェーン店は営業している店は多かった。
そう、時短をしながら・・・。
なので仕事が終わるころには結局、行きつけの中華チェーンで一杯やることもできず、家に帰っている。
中華屋で飲むビールと比べて家で1人飲むビールは、堪らなく陰鬱な気持ちになった。
自分の年になると結婚している女性も多く、同性と比較した自分の立ち位置が惨めになってくる。
中華屋は他に飲んでいるオジサンの笑い声を聴きながら「1人飲みなのに1人じゃない」という意味不明感があるから飲めるのだ。
まるでGWを狙ったかのように出された緊急事態宣言も、5月の21日になったら関西圏は解除されるとのことで、すぐさまサンダーバードの特急券を取った。
誰もいない金沢駅のホームを降りて兼六園や金沢城へ行ったものの、まるで皆が自主的自宅謹慎しているかのように静かだった。
それでもラーメンを食べる店は営業していたのは救いで、城の近くの中華屋で担担麺をかっ喰らった後に北鉄に乗って北上することにした。
金沢へ行く度に結局最終目的地になるのは内灘だ。
どうしても最終目的地が内灘になるのは、それだけ思い出があるからだ。
思い出がある、と言っても内灘に思い出があるわけじゃない。
金沢と内灘を繋ぐ北陸鉄道浅野川線で使われる03系。
それはかつて、営団地下鉄日比谷線の車両として中目黒から北越谷、そして東武動物公園まで繋いでいた電車だ。
草加のスラムで育った私は、この電車を見て、時としてこの電車に乗って東京へ行き、動物園へと足を運んだものだった。
別段、故郷が好きだというわけじゃない。
お世辞にも草加は治安が悪かったし、せんべい以外何もない。
家族にしても父は私が産まれて直ぐに再婚、妹は暴走族していて苦労した。
それでも大阪で満州餃子を食べたり、こうして長閑な海辺の町で余生を送る03系に乗ると、故郷との繋がりを感じるものだった。
日本で3番目に広い砂丘・・・それが内灘砂丘という場所だ。
鳥取砂丘に比べれば些かの知名度も無く、地元民以外はほぼ来ないようなこの場所を、時折り四駆が駆け抜ける。
まるで砂漠のような砂浜は歩くだけでズボズボと靴が埋まるような感覚になるし、靴の中なんて砂だらけ。
本当に四足歩行に乗りたい気持ちになる。
それでも広大な砂丘を歩くことで、地球という星の中で自分がちっぽけな存在であることを感じられるのが愉しかった。
少なくとも20代の頃は、自分でお金を稼げるようになったことで、貧しかった10代までの頃より生活は楽になって、ただ前だけを見て生きれた。
ただ30代になって、何か生きるのが憂鬱いと思うようになってきた。
大阪に左遷されたから、というのもあるかも知れない。
ただ、池袋で働いてても同じ感情になっただろう。
ひとつだけ分かるのは「どうせ自分は何者にもなれない」ということだ。
「何者にもなれへんのに何でこんな大都会で忙しなく生きとるんやろ…」
自分は何者にもなれない。
そこに気付いた時に、仕事へのモチベーションが下がってしまった。
週末に中華屋で酒に入り浸って辛うじて発散していたストレスも、流行病で行き場を失った。
そんな陰鬱な気持ちを払拭するかのように、ただズボズボと砂浜を歩いていた。
〚登場人物〛
埼玉県草加市出身。
大阪で勤務する30代。
周囲が既婚者だらけになって都会に疲れた思秋期。
「自分は何者にもなれない」と気付き、生きる目的がわからなくなった。