スプリントコーチがあたりまえになる日
今から12年前。陸上競技者として第一線を引退した僕は「スプリントコーチ」という新しい自分目がけて走り出そうとしていました。
たくさんの人に相談して分かった「非現実」な挑戦。
無理やできないという発想はよく分かります。
ただ、その判断はその人の経験値や価値観で決定されます。
僕の価値観では「スプリントコーチ」という職業が成り立つとか稼げるとかそんなことを予想していたのではなく、ただただ単純に
それからただひたすらに走り続けました。
たくさんの子供たちに走り方を教える日々。全国移動し続ける日々。
一体、僕は何人のもの子供たちに走り方を教えることを通じて出会ってきたのだろう。僕は記録し続けていました。1年間で1万人を超える数。7年間続けました。
たくさんのトップアスリートにも出会う機会がありました。今でも忘れない現役中に当時のスポンサーからお話をいただいた「オリックスバファローズ」の選手への指導。
ほんの1-2時間で足が速くなる選手たち。
正直、こんなにも「簡単に」という初期印象でした。
0.01秒縮めたくても縮められない。
そんな世界で生きてきた僕からすると「簡単に」という言葉を使うには適切ではなかったかもしれません。ただそれは反対に限りない可能性を感じたのです。
速く走ることを求めているのは、陸上競技選手だけでなく、野球、サッカー、アメフト、ラグビー、バスケット…全てのアスリートに「必要」とされることなんだと。
初めて「スプリントコーチ」として出会ったサッカー選手は今でも現役選手として活躍している加賀健一選手(ブラウブリッツ秋田)です。加賀さんとの出会いがきっかけとなり、たくさんの選手たちに出会うことができました。
サッカーに関してはぼんやり日本代表戦を見るレベルだった僕は、加賀さんの試合をチェックするようになり、試合中で走りの気になるシーンを切り取って「何分何秒の走り方なんですが」と連絡をする。サッカーというスポーツを「走り方」という視点で見るようになりました。
当時浦和レッズの選手だった槙野智章さん、今年浦和レッズに復帰した宇賀神友弥選手。「アッキーのスプリントトレーニングのお陰で」何度彼らからありがたすぎる言葉をいただけたことでしょう。2人とも10年以上も継続してスプリントトレーニングを信じてくれました。
彼らがきっかけとなり、たくさんのサッカー選手たちの走りを見ることができました。サッカー選手に必要なトレーニングを知ることができました。サッカー選手の求めることが理解できるようになりました。そして、自分は「スプリントコーチ」になってよかったと思いました。
「スプリントコーチ」となり10年の月日が経った日。
いわきFC大倉智社長からの一本の電話。いわきFCの「スプリントコーチ」の打診でした。契約年数、契約条件、そんなことどうでもよかったんです。僕が積み上げ続けてきたものを評価してくれるクラブがある。しかも地元。僕の生まれ育った大熊町がホームタウンとなっているいわきFC。そんな素晴らしいクラブの一員になれた。「スプリントコーチ」がどのクラブにもどの球団にも存在する。そんな僕の一つの夢を叶えてくれたクラブ。10年という月日は僕にとってあまりに一瞬でした。
ある日、一人の青年と出会いました。陸上競技で400mをやっている。将来は「スプリントコーチ」になりたいと。当時の僕を思い出しました。きっと彼が僕じゃない誰かに相談したらきっと当時の僕のように無理だできないと言われるのだろうか。
「スプリントコーチ」の僕に「スプリントコーチ」になりたいと思い行動した彼のチャレンジを叶えるサポートはできるなと思いました。「じゃあもうこっちおいでよ」一人の人生を左右する。僕にとっても勝負でした。
彼は関西から関東に僕の家の近所に引っ越してきました。本気と本気。僕は彼を雇用することを決めました。僕の指導の現場には全て来てもらいました。子供たちからトップアスリートまで。とにかく何から何まで行動を共にしてもらいました。行き帰りの車の中で「走る」ことについてばかり話す。そのぐらい人の足を速くすることに二人は夢中でした。
彼のために小学生のためのスクールを作りました。最初は5人も来ませんでした。赤字の日々でした。でも、僕は絶対に逆転できる確信がありました。数ヶ月経ち、スクールはどのクラスも満員。走りに対する考え方、子供達に本気で向き合う姿勢。そういった姿勢を知っていたからこそ彼なら逆転できると思ったのです。
昨年の年度末。僕に届いた一本の連絡。J2の水戸ホーリーホックさんから「スプリントコーチ」のオファーの連絡でした。
当然、僕はいわきFCとの契約があります。しかしながら、水戸ホーリーホックというチームを走りを通じて変革したいという熱い想いに答えたい。どのクラブにも「スプリントコーチ」がいるという文化を作りたい。僕は彼を、「スプリントコーチ」になりたいと願い行動してきた彼を推薦しました。
水戸ホーリーホックさんは快く承諾してくれました。そして、同カテゴリーという決して芳しくはない状況をいわきFC大倉社長も「日本サッカー界のためを考えるのならやったほうがいい」と言ってくださいました。
どのクラブにも、どの球団にも「スプリントコーチ」が当たり前に存在するスポーツ界にする。僕の一つの夢に近づいた瞬間でもありました。
今から12年前。多くの批判や非難を受けてきました。ないものを創り出すということ。お前なんかにという嫉妬。たくさんありました。でも、いつしか自分の一切ブレることのない覚悟が大きな塊になった時、何も聞こえなくなりました。ポジティブもネガティブも関係のないそんな毎日を、世界を変えるんだという毎日。
気づけば、たくさんの方から「スプリントコーチ」という職業が評価され、たくさんの選手、チーム、学校からご依頼をいただいてる現実。少しづつではありますが、僕が信じてきたスポーツ社会になっている気がしています。
もし、自分自身がやりたいこと達成したいなにかが、自分じゃない誰かのネガティブな声でそのなにかを諦めなければいいけないと思っている人がいたとしたら、僕は迷わずやるべきだと言うでしょう。
僕は、僕を信じて行動に移した彼の全てを彼の夢を叶えてあげないといけないんだと思えました。彼がそういう想いにさせたんです。
「スプリントコーチ」があたりまえになる日。
それはきっとまだまだ先かもしれません。そのためにも「スプリントコーチになりたいんです」と自信を持って言える一つの職業になるように毎日毎日アスリートと同じように結果をひたすらに積み上げ続ける必要があるのです。
まだスタートの号砲がなっただけ。就任することがゴールではない。結果。明確な結果。誰が見ても納得する結果。スポーツ界を、世界を、「走り」で変えるために。