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(下) わたしを拾って俺を捨てた 肯定し難き日々を守り続けた日々

人と付き合うことを経験した

立場的には"カノジョ"だった
そこに違和感しか感じなかったが
相手のことが好きだったし
相手がカレと言うならばわたしは
世間一般的にはカノジョという立場になるのだろうと言い聞かせたし
その立場にも興味はあった
そんな悶々とした日々の中、言葉は放たれた

「彼女ならもっと女らしくなって」と。

やっぱりそうか。
とにかく悲しかったし自分が悔しかった
隣を歩いていても彼女には見えない
それ以前に女にも見えないし
俺って言うし
かわいい服なんて似合わないし体型なんて自己嫌悪の塊だし
そんな気持が一気に溢れたいつからか、かっこよくなりたいの思いを叶える隣で
女という存在から程遠い外見になっていた
恋を求めるのは難しい。

そうか、もうここまで来てしまったんだ。

突き詰めてきたここ数年間
初めて立ち止まってしまった
そこには明らかに、壁ができていた

男性の好きです、の言葉が嘘に思えた
女性の好きです、はコミュニケーションだと思っていた
男みたいな女を好きになってくれる男なんて存在しないと思った
男みたいな女を好きになってくれる女も存在しないと思った
狭い世界を創ってしまった

長いこと、人を好きになれなかった
人と距離を置きたかった
自分自身さえよく分からなくなっていた
今思えば、嘘と受け止めたこと
本当に本当に本当に酷いことをしたし
とても申し訳なかった
思い出しては、自分を叱る
一生悔いるべきことだと心に刻んでいる


学生を卒業し、社会の中に放り込まれる
「女の子だからね」の言葉で胃が痛くなる
レディファーストに嫌悪感を抱く
敬語に「私」は付き物か
免疫の無い世界だった
これは振り出しか...?

苦笑いの日々を生きる中で
時代が少しずつ変わってきた
「そういう人たちが、左利きの人数と同じくらいの割合で存在する」
メディアが取り上げ始めると、社会側が免疫を付けてきた

心無い言葉を耳にすることもあったが
理解者は確実に増えていた
そんな世の中の移り変わりの中で
25を過ぎた思考は、少しずつ変わってきた

私、と言い慣れてしまっていたからなのか
男の人と話す機会が多くなり
今までの男の人への恐怖が緩和され始めたからなのか

少しずつ、だけど確実に
生きやすさを感じていた


あの日の情けなさやどうしようもなさから生まれた壁

27歳になり、何かを捨てる、あるいは殺してしまうだろうな、という感覚が来た
その時直感で
"わたしは俺を捨てるだろう"と思った

やっと気付いた

わたしは俺に囚われていたのか。

人一倍、男や女なんてどっちでも、どうでもいいと主張してきたはずなのに
男や女に誰よりも囚われていたのは自分だった。
気づいた瞬間はとにかく虚しくて虚しくて情けなかったし
それを超えたら笑いが出た
あまりにも長い間、自分を縛っていたかのように思う


「自分らしさ=俺」の方程式はいつからか
生き辛さとなっていたのかもしれない

普通に恋愛したかったな、と
1番経験できる時期を逃してしまったなと
今更になって思うのだ

時は取り戻せない

結婚なんて考えたことがなかったし
結婚は恋愛の延長であり、自分には無縁だと思っていたが
最近は左手の薬指を寂しく思うのだ

囚われから解放されて
よりよく生きるにはと考え始めて
やっと自分の本名も自然に受け入れられるようになった

"私"に違和感を感じなくなったこと
"俺"に強い執着心を求めなくなったこと
慣れなのか、成長なのかは分からないが
大きすぎる1歩だと感じている

未だに書類やアンケートの性別欄で手が止まる
それでも昔ほど固執しなくなったし
"その他"の欄が増えたのはとても有難いし
彼女、という立場にも恐らく抵抗は無くなっているだろう

ここまで来るのに、人よりも時間を使いすぎてしまった
未だに世知辛いと思うことはあるが
前よりも自由だ
よりよく生きるために前向きだ

解放された。


あの日の感情の一つ一つは
人と違う自分に対しての興味や優越感のようにも思ったが
始まりの嫌悪感と絶望は今でも鮮明に思い出せるほど
20年経った今も、深く残っている

あの日、1人の人間に気付かされ、ここまで来た
全てがノンフィクション。全てが本心
時間はかかったが、気づくことができた今
この20年に後悔はしていない

気付けた今、新しい呼吸方法を見つけたんだ

これからの未知の未来に、期待したい

▶ わたしを拾って俺を捨てた 肯定し難き日々を守り続けた日々(上)

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