11.見えない者へ祈る
ある記事を読んで、世の中には未解決な問題を抱えて生きている人々が存在すること、それが一向に解決せず、問題を抱えたまま亡くなってしまう人がいる現実を見た。
ふと、彼らは幸福を感じた時に、心から喜ぶことは出来ているのだろうかと疑問に思った。実態の見えぬ空気のようなものを背負い、いくつ笑おうが次の瞬間には、現実に引き戻されているのではなかろうかと心配になった。
そんなことを考えていたら、急に祈りたくなった。
生きているうちに解決できなかったとしても、その人が感じてきた楽しさや嬉しさ、未解決な問題以上の幸福な思い出を抱えて、最期は、良い人生だったと思って欲しいと、心から祈りたくなった。
最近読んだ本に、突然他人のために祈りたくなる描写があったからだろうか。
小学校中学年くらいの頃、わたしは脳内で自分だけの神様を作り、毎晩祈りを捧げていた。胸の上で両手の指を絡ませ、瞳を閉じて心の中で祈り、眠る。祈らずに寝てしまった日は、一言神様に「昨日は寝てしまってごめんなさい」と謝り、起き上がる前に前日分の祈りを捧げる。
祈りの言葉の冒頭は、いつも決まっていた。
まず神様に「私の声が聞こえますか」と確認する。
しかし本当に存在するわけでは無いので、聞こえている前提で話を進める。
次に自分の名前と住所を伝える。これは「神様はたくさんの人々の願いを聞かなければならないので、名前と住所を伝えなければ、どこの誰の願いかわからない」と、どっかの誰かが言っていたからだ。後に、名前と住所だけで本当に見つけてもらえるのだろうかと不安になり、親の名前や学校名まで伝えるようになった。
願いは主に、体調が悪くならないことと、家庭内の平穏だった。その他、次の日が修学旅行なら、バスに酔いませんように、とか、旅館でもちゃんと眠れますように、なんてこともお願いした。当日は、神様に願ったから大丈夫、と謎の根拠を強く信じた結果、乗り切れることが多かった。
願いが多くなりそうな時は、いつもの願い候補からいくつかを外し、あまり神様に迷惑がかからないよう調整していた。願いがどうしても沢山ある場合は「多くてごめんなさい」と一言添えていた。
最後は、この世に生きる人々にとって、明日が平和な一日になりますように。神様にとっても平和な一日でありますように。と締め、眠りにつく。それが毎晩のルーティンだった。
そんなことを続けながらもどこかでは、神様なんて居ないこと、自分が作り上げた空想だということを理解していた。姿形を具現化しなかったのも、その領域まで踏み入れてしまうと、戻れない気がしていたからだと思う。毎晩の願いが報われなくても、そこまで落胆はしなかった。どこかでとても冷静だった。
それでも、不安になった時は「昨日祈ったから大丈夫」と強く自分を信じた。当時の自分は、何かに縋らなければとても不安だったように思う。神への祈りはそれから数年続いた。
そんな日々を続けるうちにふと、このまま神様に頼ることは、果たして良いことなのだろうか。このままではきっと、大人になっても祈り続けているかもしれない。と、自分が急に滑稽に思えてしまった。
今まで願い続けていた神様に申し訳なさを抱きながらも、その日から「神離れ」を練習するようになった。
今日は祈らず寝てみよう。明日お腹痛くなるかもしれないけれど
明日も祈らず寝てみよう。平穏どころか悪化するかもしれないけれど
そんな不安を抱きつつも徐々に神離れを続け、いつしか祈らずとも安心して眠れるようになっていた。
それからは殆ど、神様に祈ることはなくなった。
祈っても祈らなくても、胃が痛くなる日はあるし、嘔吐する日もあるし、家庭内の冷戦状態は何ヶ月も続いた。結局そんな日々から自分を守り、保つために祈り続けていた。今思えば神様は、自分にとっての精神安定剤だった。今回も、現実を認め、ザワつく自分の心を鎮めるために、祈りたくなったのかもしれないが、数年経った今、誰かのために祈ろうとしている。意識的に、他人の幸福を増やしたくなった。
仰向けのまま胸の上で両手の指を絡ませ、目を閉じる。願いが届く保証はないし寧ろ、届かないとも思っている。それでもわたしは、見えない重りを背負う人々の人生が、つよい幸福で溢れることを祈りたかった。