ハマれ、たとえば演劇に。
最近、意を決して『ハイキュー!!』のアニメを視聴した。どうして意を決する必要があったかというと、「見たら絶対にハマる」という確信があったからだ。それも、「深くハマるだろう」という確信が。それは、なぜか。
『ハイキュー!!』はとても評価が高く、熱心なファンもたくさんいる超人気作品であるし、その誠実な作品作りの評判は今まで当該作品に触れてこなかった私の耳にも聞こえてくるほどであった。それに私はそもそもスポーツを見るのが好きなのだ。我が家では「自分がプレーできたら楽しそうなスポーツランキングの一位はバレーボールだわな」とオリンピック毎に言っている。
そんな「絶対にハマる」条件の整っている作品『ハイキュー!!』、深い落とし穴に自ら飛び込むのは怖かった。それでも楽しみではあった。いつか時が来たら思いっきり飛び込もう。そう思って今まで大事にとっておいたのだ。そして、その時は来た。なぜか突然に「今こそ『ハイキュー!!』を見るときだ」と思った。そしてアニメの1期~3期を視聴し終えたのであるが、今回は「『ハイキュー!!』感想note」ではないので感想は割愛する。ただ、とてもよかった。本当に。自明である。
スポーツ観戦をしていていつも思うことがある。「運動神経がよい人は楽しそうだなあ」ということ。そして、『ハイキュー!!』を見ていて気づいたことがある。「それって本当に運動神経がよい人だけの話か?」
オリンピックやJリーグなど「一般人と比較して、ものすごくその競技が上手い人」のやるスポーツ、いわゆるプロスポーツばかり見ていたから、私の中ではスポーツとは「運動神経がとてもよくて神さまからスポーツをやるように恵まれた肉体を授けられた者たちのみが楽しめるもの」つまり「自分とはまったく関係のない別世界のもの」だと思っていた。けれども『ハイキュー!!』の舞台は高校の部活動で、フィクションらしく恵まれた天才たちも出て来るが、一生懸命努力を続ける「普通の人」だってたくさん出てくるのだ。そんな彼らを見ているうち「もしかして普通の運動神経の人でも、たくさん練習すればスポーツってできるんじゃないの?」ということに気づいたわけである。
そりゃそうだ、当たり前だの声が聞こえてきそうだ。でも私は今までそれを実感したことがなかったのだ。今度はそちらの「なぜ」を掘り下げてみたい。なぜ私は「たくさん練習すればできる」を体感したことがなかったのだろう。
私は子どもの頃から「運動は得意じゃないなあ」「運動神経よくないしなあ」と言っていた気がする。よく思い返してみると、幼稚園児の頃から外で遊ぶ時間にも室内に忍び込んで遊んでいたので、なかなか筋金入りである。でも家族で旅行へ行けばプールやスキーで遊んでいたわけで、運動自体が嫌いだったわけではなさそうだ。
【考えられる原因その1】室内遊びがとても好き。外遊びより絵を描くほうが好きだったので自分はインドア派だという意識が芽生えた。
【考えられる原因その2】疲れる。これだ。この原因その2こそ、今回気づいた大いなる原因と思われるのである。
私には体力がない。買い物などで外出したときなど、こまめに喫茶店に入って休憩を取らないと体力がもたない。だから長時間立ちっぱなしになるであろうコンサートやフェスなどのイベントには参加しない(できない)。友人との旅行も極力しない。普通の人の行動ペースについて行けないからだ。我が家は体力なしファミリーなので基本車移動であるし、すぐに休憩する。電車も極力座る。移動時間に立っているだけで貴重な体力を失っていくからだ。
今でこそ「自分は体力がないぞ」と自覚しており、このような対策をとって生活しているが「自分には体力がない」と気づいたのはいつ頃だっただろうか。おそらく高校生くらいまでは、自分が人と比べてこんなに体力がないとは思っていなかった。家族以外と行動することが少なかったので、気づいていなかったのだと思う。
話を戻すと、つまり私は「すぐ疲れる」ためにそもそもスポーツを「たくさん練習」したことがなかったのだ。絵を描くことや本を読むことはたくさん練習できたけれど、運動はたくさん練習できなかった。だからうまくできなくて「なーんか向いてないかも」と感じ、小学生頃には「私は運動神経ないから」と言うようになっていたのだと思う。「向いてない」は間違っていないと思うけれど「運動神経ない」はまだわからないじゃないか!
そう叫びつつ、私も私として長年生きてきたので自分にとてつもない運動神経が備わっているわけがないことくらい把握している。それでも! 中学の部活動くらい、挑戦してみてもよかったのではないか? プロにならずとも、大会に出ずとも、スタメンに選ばれずとも「ちょっとたくさんやったことあるスポーツ」があってもよかったのに。
私が中学に上がったばかりの頃、当時『るろうに剣心』にハマっていた私は「剣道部もいいなあ」と1mmくらい考えたのだが、すでに道場に通っていた子から「アンタ、剣道部入るってマジ?」と尋ねられ「いいえ、滅相もございません。私は科学部でオタクライフをエンジョイいたします」と答えたのであった。まあ、それがなくともやはり剣道部には入らなかったと思うが(というか、誰が私が剣道部に入るなんて噂を流した?) 結局、私は科学部の部長となって内申点を稼ぎ、輝かしい科学部の黄金時代を牽引したのである。(科学的だと屁理屈をこね、うどんを打ったり中庭菜園を作ったりして遊んだ)
もうひとつ、気づいたことがある。「運動神経がものすごくよい人」や「体格がものすごくよい人」またはそれらを兼ね備えている人は「スポーツにものすごく向いている人」だということ。これもまた、当たり前だの声が聞こえてきそうだが、もう少し聞いてほしい。つまり、私のような、体力がなく、鍛えたところで筋肉のひとつもつかないような人間は「スポーツに向いていない」わけである。
ここまではみんなもう知っている。だが、みんなちゃんと気づいているだろうか。あくまでも「スポーツに向いていない」だけである。向いていないからといってスポーツを禁止されているわけではないし、反対に我々にはスポーツよりもっともっと向いているものがあるだろうということなのだ。
私の体はペラペラのヒョロヒョロだ。努力してこうなっているわけではないし、反対に努力してもムキムキにはなれない。これが私の持っている体。すぐバッテリー切れを起こすし、25℃以上で使用するとすぐオーバーヒートでぶっ壊れるけれど、私は結構気に入っている。スポーツには向いていないけれど、ペラペラのヒョロヒョロな体はなかなかいない面白いシルエットなので重宝される機会もそれなりにあるのだ。
「バレーをやるために生まれてきた」「サッカーをやるために生まれてきた」「野球をやるために生まれてきた」、そんなスポーツの天才たち。私の体は一切スポーツには向いていないけれど、きっとどこかで何かに天才的な相性を発揮することであろう。
私は芝居をつくるのが好きなのだが、面白いシルエットの人はレアカードであると思っている。背が高かったり、低かったり、瘦せていたり、太っていたり。そういう個性的なシルエットを持っている人は、いるだけですでに情報を放っている。つまり面白いのだ。
あとは声が高かったり、低かったり、語尾がハネていたり、やけに響く声質だったり。そういうすべてが演劇では武器になる。だからあの人にこの役を任せてみたくなる。こういうところが芝居をつくるうえで面白くて仕方がないのである。私はあまり出る側はせずディレクション側が多いのだが、役者の持っているものを目一杯楽しみたいと思っているし、楽しんでいる。
スポーツが向いていないと感じているそこのあなた、演劇をやろう。もしかしたら向いているかもしれない。向いていないかもしれないけれど。「アンタ、演劇部入るってマジ?」と尋ねられても怯むんじゃない。「ええ、私にはあなたと違うことができるので」と言おう。
嘘だ。別に喧嘩は買わなくてもよい。でも演劇部には入ってほしい。演劇部なんて、いつも人が足りないものだから。役者じゃなくても構わない。音響・照明・衣装・大道具小道具、その他いろいろスタッフだってたくさん人手ががいるのだから。スタッフ仕事にだって当然各々のセンスが現れる。
「つまり私たちはスポーツにはまったく向いていないけれども、芝居をつくる上で天才的な体を持って生まれてきた! 芝居をつくるために生まれてきたのだよ!」と母に熱弁したところ、「ポジティブで素晴らしい。さすがだね」とのことであった。そうである。私はとてつもなくポジティブなのである。演劇をやるとこんなにもポジティブになれる。みんなも演劇をやろう。
こういう訳で、私は体力がないなりにスポーツを楽しんでみてもよいし、とにかく芝居はつくるべきということが改めてわかったので、引き続き持ちうるすべてを使って人生を楽しんでいきたいと思っている。
演劇への勧誘もたくさんできたところで、今日はここまで。
p.s.
それはそれとして、演劇をやるにしても健康を維持する体力はあったほうがよいので皆さんもよく食べ、よく笑い、よく寝ましょうね。私もがんばる。たべる。
おわり