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1990-国中挙げてミッドシップ化は日本人スズキをF1で初の表彰台へ

F1の黄金時代を迎えたホンダからアイルトンセナも開発に協力した全アルミ製スポーツカーNSXが登場します。ボディ材料は外皮だけでなく構造物全てがアルミ製なので溶接にも特殊な工具と高い電圧が必要です。その為このクルマ専用の生産ラインが用意されました。だからマグネット式の初心者マークは付きません。もっとも800万円を用意してオーダーリストに名前を連ねてもハンドルを握れる2年後には初心者マークも不要ですが・・・・。

初代からのV6エンジンを縦億き配置として、トランスミッションからエンジン直下にドライブシャフトを通した新しいレジェンドがデビューします。英ローバー社との協業は解消、国産量産車初のエアバッグは後に続く採用例が続出し、後には装着が義務付けられます。でも欠陥問題が噴出することで命を救うはずの装備が、結局は製造メーカーのタカタの会社生命を危うくすることになってしまうのですが・・・・・

トヨタはNSXとは違うアプローチで第二のミッド・シップカーを完成させます。4気筒のエンジンを横倒しして床下に配置、ワンルームの部屋みたいなフラットに床には三列のシートが並びます。商用車バージョンはなく、ノーズが前に長く伸びた卵型スタイルは衝突安全基準を満たす為で、3ナンバー前提のこのサイズは北米だとミニバンとは呼ばれたカテゴリーでした。

同じミニバン市場にはマツダMPVも参戦しますがこちらはずっとオーソドックスな手法の3列シート配置。プロペラシャフトを持つFRながら床を高く上げたのでフロアはフラット。でも短いノーズが存在しエスティマ程の室内前後長は稼げませんでした。

それまではおむすび型ピストン2連だったロータリー・エンジンを3連に繋いだ20BタイプのRE搭載車がコスモの名跡を継ぎます。販売店はユーノス店専売とされ、クーペ一種のみが店頭を飾りました。

ユーノス・ロードスターは相変わらずの人気ぶりで春には4速ATが追加され、秋にはグリーンのボディにタンのレザーがとっても英国風なVスペシャルが追加されます。

トヨタは日産の様なレトロ・ファッションのパイクカーは作りませんでしたが、インセクト・ウィング・ドアと言うガル・ウィングにも似た大胆な上下開閉機構のドアを持つ参考出品車AXVをセラとして市販化しました。ベースはコルサ、スターレットクラスで、頭上まで大きくカーブするガラスで覆われたキャビンは、さぞ日本の真夏の炎天下が苦手だったことでしょう。でもロールオーバーと言う横方向の転倒事故も含めた厳しい社内基準も満たしての発売なので心配なく運転を楽しめます。当然エアコンは標準です。

セラと同期デビューは新しいコルサ・ターセル・カローラIIの三兄弟。大きくラウンドした3ドアカローラIIは外務省にお勤めだったエリート職員小和田雅子さんの愛車で、お嫁に行った先の赤坂の大きな車庫にもお輿入れされたとか。

当時パジェロやデリカ・スターワゴンといったRVが人気の三菱から3ナンバー専用開発の新しいセダン、ディアマンテがデビューし、逆スラントしたドイツ車風の顔つきと共に人気車種となります。

さて日産はこの時期ハンドリング性能の向上に腐心しており、スタンザ/オースターの兄弟車関係を解消して渾身のFF4/5ドアセダン=プリメーラを送り出します。前輪サスにはFFながらダブル・ウィッシュボーン式を奢って、スタイリングも欧州を意識した日本車離れしたものでした。

他方サニー店向けにはローレル・スピリットをグレードアップしたプレセアを投入。前後ドアガラスはサッシュレス。4ドアHTの様にも見えるスタイリッシュなデザインですが前輪はプリメーラとは違い普通のストラット式でした。

サニーと共通のメカニズムを持つパルサー・シリーズも後を追う様にモデルチェンジ。最強版に3ドアGTIーRはアテーサ4WDシステムをツインカム・インタークーラー付ターボエンジンと組み合わせたもので、R32GTーR並みの迫力ある佇まいでした。日産のラリーウェポンとしての期待も担いましたが、いかんせんこの時期のライバル達は強すぎました。

一方好評だったサニーB13の方は新型でもほとんど印象を変える事なく四輪駆動やディーゼル版を充実させます。昔ほどの存在感を失ったクーペの方はNXクーペと改名の上セダンとは独立した丸っこいデザインを纏いましたが、人気回復はならず初代からあったクーペモデルとしてはこれで終止符を打ちます。

パリの街中でスタントを披露したCMが話題となったいすゞジェミニがFF化二世代目に移行。丸みを帯びたデザインはピアッツアもFF化したうえでシリーズに含め3ドアにはハッチバックとクーペが並んで選択肢を拡げました。しかし、人気となった初代ほどの勢いはなく、このモデルがいすゞ最後の量産乗用車となってしまいます。いすゞは乗用車生産から撤退し、販売店向けにはスバルやホンダからレガシィやドマーニをOEM供給してもらって、アスカやジェミニの名を冠していました・・・・・

衝突基準対応の為ボディサイズ10センチ拡大に対応した軽の排気量上限が550ccから660に引き上げられます。でもターボなどによる最高出力は64馬力に抑えられたまま。ただ最高トルクは確実にアップするので乗りやすさが格段に向上します。例えばジムニーの場合三気筒インタークーラーターボ付きエンジンでは最大トルクが1割以上もアップしてオートマチックの設定も可能になりました。660では最軽量ボディになるので、今も人気車種の様です。

バブル景気は土地家屋の値段を吊り上げ、国民は手の届かないマイホームより高級車を買いに走りました。空前の自動車販売台数を記録した反面、都心は駐車場不足に喘ぎ車庫飛ばしなども横行してリアウインドーに一枚余計なシールを貼るハメに堕ち入ります。

F1グランプリはセナプロマンセルらの黄金時代、フェラーリもホンダも頂点を極めんと必死でした。鈴鹿での開催も4回目。ヘリコプター事故に遭い出場できなかったナニーニに代わるベネトンの助っ人ナニーニがピケと並んで表彰台に立ったのもドラマチックな結末でしたが、日本人ドライバー鈴木亜久里が初めてF1グランプリの表彰台に立ったからさあ大変!日本は空前のF1ブームの嵐に襲われます。翌91年シーズンに向けて期待は高まるばかり。女性誌が相次ぎF1特集を組めば、セナプロストマンセルといったスタードライバーたちのTVCMがお茶の間に顔を見せるなど、すっかりF1が人気のスポーツとして遅着したものでした。

F1人気も自動車生産もこのころが絶頂、あとは坂道を転げるように・・・・・



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