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1973 時代の節目と世界一のクリーンな車

映画エクソシストの不穏なメロディー(チューブラーベルズ)が巷にあふれた1973年はオイルショックが世界を襲った年だった。と言っても、それは10月以降の話で、それまでは益々高出力化、高性能化を目指した国産車群でした。市販のガソリンには未だアンチ・ノック剤として四鉛化エチルと言う有害な物質が含まれていた時代・・・・排気ガスをめぐる規制も徐々に厳しくなってゆき、使用過程のクルマにも点火時期調整などの整備が求められます。

絶好調のケンメリHTに2代目GT-Rが追加されたものの、強まる排気ガス規制の強化を前に生産台数は200台に満たず早々に生産を終えました。

アメリカで流行のコークボトル・ラインを多用して、リアの足元を力強く、逞しく見せる手法はそれと引き換えに後方の視界をますます狭いものにし、窓ガラスの面積も縮小の一途を辿ります。
日産がブルーバードの弟分的な存在として発売した新車種バイオレットは全車がファストバック・スタイルのグラマラス過ぎるデザインを纏い、日産店の大衆車版として、またはサニーとの間隙を埋める役目を果たします。

そのサニーも1970年からわずか3年でモデルチェンジ。ヨーロッパ風のスリムなスタイルから一変。アメリカンな筋骨隆々のグラマラスなボディへと大変身しましたが、1400のサニー・エクセレントも含め、機械部分は名機12Aエンジン共々ほぼ先代の継承。計器盤も大きくラウンドしたコクピットスタイルが標準となります。


でも、サニー・トラックだけは先代の120系がそのまま継続生産され、驚くなかれこれが21世紀までこの形で生き延びることにもなるのですが・・・モータースポーツの世界で人気だった110系サニークーペも結局、新型の登場後もその軽量ハイパワーな魅力は衰えずにハチロクの登場までは財布の軽い若者のレースの素材として愛され続けました。

一方のトヨタと言えば春に登場したパブリカの事実上の後継車=スターレットが、曲線を排した窓の大きなスタイリッシュなデザインで登場します。これはサニーとは正反対の趣向。六角形をモチーフとしたウィンドウ・グラフォックはジウジアーロが手掛けたランボルギーニ・ハマラにも良く似たもので、それまでのトヨタのデザインの流れには無かったものでした。まず2ドアが先行し、パブリカには無かった4ドアも追加されます。これは兄弟車のダイハツも同様、コンソルテ・クーペと題して双子車が現れたのはパブリカ1000の時と同様でした。

トヨタ・デザインの直線回帰は、次のコロナ100系のモデル・チェンジでも一層明白になります。この当時のモーターショーでは安全対策車=ESVへの志向も少しずつ高まりを見せていて、コロナも新型ではESVをイメージした、オーソドックスで保守的なスタイルへと変貌していきます。一方、ラウンドした計器盤にズラリと並んだインジケーターはOKモニターと呼ばれ、始動時に異常がないかを警告ランプで一斉チェックできる、飛行機にも似た機能でした。
デビュー3年を経たセリカにファストバック・デザインを取り入れた、セリカの最高峰ともいうべきリフトバック(TA,RA25~)が追加され、エンジンも2リッターを中心に展開。最強版はマークⅡGSSやコロナGTにも搭載されたDOHC=18R-Gを積むセリカ・リフトバック2000GTで、アメリカのムスタングが人気だったように、ベビー・ムスタングの異名を戴きました。

ギャラン・シリーズが好評な三菱はそれまでのコルト800からの系譜に変わる新規の大衆車をデビューさせます。事実上のライバルはカローラであり、サニーでもありました。ランサー(軽騎兵)と呼ばれたその新型大衆車は、やがてラリーの分野で大活躍し、サファリでの優勝などそれまでの日産に次いでラリーの三菱のブランドを揺るぎ無いものにしていききます。軽快なスタイルはクーペ・モデルを持たず、その役目は先発したFTOが果たしています。兄貴分のギャランもややふっくらとしたボディを纏い、第二世代へと進化しましたがGTOは1700、2000ccに増強されそのまま継続しています。


発売から2年目のシビックにユニークなAT車が生まれます。トルク・コンバータ--の広い守備範囲を活かして変速ギアを一段だけにした無段変速機と銘打ってホンダ☆(スター)レンジと名付けられたATは実のところ手動変速を伴う実質的な2段変速のAT車でした。スタートや上り坂にはLレンジの低いギアを選んだ方が機敏に走れ、やがて☆レンジはオーバードライブも加えた実質的な3段変速に進化します。

そして年末に世界に先駆けて登場したのがシビックCVCC。世界一厳しいとされたアメリカ・マスキー法の排気ガス基準に第1号でパスした低公害車でした。ピストンの頂点には小さな福燃焼室があり、気化器も吸入バルブもそれぞれに1セットづつ。排出されるガスは後処理を必要としないクリーンなものとなり、経年変化で性能が劣化することもありません。出力不足を補う意味で排気量は1500にアップ。それまでシビックに無かった4ドアのボディは2ドアに比べていく分長めの余裕あるサイズでした。
低公害車を市販化した効果はことのほか大きく、シビックはアメリカでもホンダの地位を大きく躍進させることになります。生産が間に合わず、販売が下降気味だった軽乗用車の生産を振り替えてまでシビックに注力したとも言われています。
このシビックがホンダを一段と大きく育て、やがては世界企業へとはばたかせることになるわけですが、ホンダも軽トラを除いて小型車に専念し軽メーカーからの脱却を図ります。

ずんぐりしたシルエットに三日月型のクレセント・ウィンドウのデザインは軽自動車のスタイリングも変えました。3年ぶりの新型フロンテは初代の日産チェリ―のような切れ上がったリア・ウインドウとラウンドしたシェイプがあまりにも個性的過ぎ、やがて軽自動車のセールスは排気ガス規制強化や車検制度などの逆風にあおられ360cc時代の終焉を迎えます。実質的な次期型モデル,アルトの登場まで大きなモデルチェンジはお預けに・・・・


海の向こう、まだ西ドイツと呼ばれた国では、シロッコと呼ばれるコンパクトなFF2ボックス・ハッチバックが発表されます。カルマン・ギアと呼ばれるフォルクス・ワーゲンのクーペ版がアグネス・ラムも愛車にしていたカルマンギア・クーペで、シロッコはその後継車でしたが、実質的なVWゴルフの露払い役を務めたのでした。ゴルフと同じエンジン、足回りを使い、ゴルフの本格生産を前にダメ出しをしておこう、と言う腹づもりでランサーに先行したFTOにも似た戦略です。

そして、秋に世界を襲った石油危機。その余波は、この後のモデルチェンジのスケジュールを狂わせたばかりか、モデルチェンジの在り方さえも左右するまでになってしまいます。大きく豊かに派手なモデルチェンジを繰り返したのはこの1973年が最後。燃費の悪さが敬遠されたマツダのロータリーエンジンはこと更不人気となり,在庫の山を築いてしまい,マツダの経営をも揺るがせることになるのですが・・・・


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