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地下鉄東西線で混雑を緩和しろ!国鉄も地下へ、メトロは地上へ

旧い方から順に1000、2000、3000系と路線開業に合わせて開発された営団地下鉄の車両ですが、4000系はなくお次は5000系。東西線の完成です。
東急、東武、京急、京成など地下鉄路線と結んで山手線の内側にも直接旅客を送り込めるようになった関東の民鉄。パンタグラフを持った狭軌幅、標準軌の車両でも地下鉄に乗り入れてくるようになると国鉄(当時)でも同様の計画が実現します。

やはり輸送力の限界が見えていた総武線各駅停車の東西間移動を補完する目的で計画されたのが営団東西線。国鉄の通勤電車(車体長20m)が地下鉄と相互直通運転運転する最初のケースとなりました。しかも東の接続先はまた総武本線。つまり、四谷や御茶ノ水を経由しない総武本線のバイパス的な役割も担っていたわけ。これに続き千代田線も国鉄との相互乗り入れを実現、さらには小田急とも繋がって民鉄、営団、国鉄という3社の異色の組み合わせも実現します。

東西線は中野駅から分岐して早稲田通り下を大手町に向かいます。大手町駅は東京駅とはやや離れた場所にあり、長い地下通路で結ばれてはいますが丸の内線が両駅に停車するので乗り換えれば東京駅にもアクセス可能です。

この東西線降り入れに際して国鉄は当時の主力通勤電車に改造を施した新しい301系電車を投入します。地下鉄区間内で走行できなくなった時、乗客の脱出口となるのは前面しかなく、それまでののっぺりした運転席の横に開閉可能なドアを設け、車体外板をアルミに置き換えた高価な代ものでした。

のちの千代田線直通に際しては従来の103系に前面ドアを設えた1200番台や1000番台が加わっています。これらの車両は晩年を和歌山線で活躍し、数年前までその姿を見ることができました。

地下鉄、とはいえ高架で地上区間を走る部分が多かったのも東西線のユニークな点。まだ未開発で地価も安かったのでしょうか?荒川の大きな橋を渡っていた地下鉄路線の車両が竜巻に煽られて脱線転覆すると言う珍しい事故が起こりました。台風でもなく、春の嵐が巻き起こした毎秒40m近い突風が主犯と見られますが、この事故から10年と絶たぬうちに山陰本線の有名な余部鉄橋で客車列車が転落するというぜんねんな事故が発生しています。強風を理由に運転を見合わせるといった規制はこうした教訓をもとに導き出されたルールでもありました。

混雑緩和のため、東西線の車両では他にも新たな試みが行われています。片側に4つあるドアの断面積を広げれば乗降時間を短縮できないか?とつくられたのは第2世代に当たる営団05系初期の電車。両開きドアの左右幅を2m近くまで広げ最新の15000系にも受け継がれ、小田急車両などにも波及しました。

これと同様の考えは片側4枚のドアを6枚に増やすというやり方で総武本線、山手線、東急田園都市線でも採用された、関西発祥の解決策です。京阪電車に採用されていた5ドア車(5000系)では混雑時になると一部の座席が天井までスルスルと上昇し、その奥にある4、5番目のドアが開閉可能になるという凝った仕掛けでした。流石にこれは関東にまで波及せず、混雑時に座席を折りたたむ簡潔な方法が取られています。一時は山手線の各編成にも取り込まれた6ドア車でしたが、近年新製の噂もなく、いまある車両で見納めとなるかもしれません。

まあ、総武本線も東西線もそれだけ混雑度が高い証とも言えるでしょう。在宅勤務や少子化が進んで混雑が減るのも時間の問題ですが・・・・


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