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チャレンジャー事故で始まった1986年にはベルト着用もバイクのメットも義務化、安全のため大島の住民は全島避難へ

1986年初頭、スペースシャトル、チャレンジャー号の爆発事故の悲劇はニュースネットワークCNNで全世界に速報された。春先にヨーロッパ各地で放射能検知システムが相次ぎ異常な数値を記録。チェルノブイリ原子力発電所の黒鉛型原子炉が暴走していたのだった。日本では大島、三原山が噴火し一夜のうちに全島民1万人を緊急避難させるという離れ業を成功させていた。

この年運転席と助手席の乗員にはシートベルトの着用が義務化される。後席は努力目標で、義務はない。が自動車電話で運転操作と通話を同時に行うことはまだ合法だった。

この年、日産からユニークなコンセプトのクーペが登場する。

EXAと名付けられたスポーツ・クーペの後ろ半分を脱着可能にして一台でクーペボディにもスポーツワゴンを気取ることもできるという新趣向だった。なのに日本の法規上交換は許されず、どちらか一方を選ぶ必要があったのは惜しい。ちなみに後半部を外せばソフトトップも用意されるオープン・ボディも楽しめた。EXAはパルサー・グループのクーペで兄弟関係にあるサニーのクーペはRZ-1と呼ばれる3ドアのクーペボディ。

これらバリエーションを含むパルサー(チェリー店)とラングレー(プリンス系)リベルタ・ビラ(日産店)シリーズは各販売店の大衆車顧客をカバーして、サニー(サニー店)やローレルスピリット(日産モーター)を補完する役割も併せ持つ。

四駆のRVがお洒落な乗用車として認知されるとともに、従来のトラックベースをより乗用車ライクにした専用のワゴン・ボディが与えられるようになったのは国内ではパジェロ人気に負うところも大きい、日産テラノはダットサン・トラックの荷台部分を一体構造の5人乗りワゴンボディに改めたもので、生産ラインはダットラと共用できる強みがある。北米輸出では報復的な関税を受けるトラックではなく、乗用車として課税を逃れるという回避策でもあったのが、昨今のSUV人気の火種になる。

三菱は四駆のワンボックス=デリカ・スターワゴンを新型に改め、よりゴージャスなRV文化を標榜する。他方で走るシーラカンス呼ばわりされた1960年代デザインのデボネアをギャラン・ベースの前輪駆動にモデルチェンジ。AMGバージョン追加などで公用車イメージの払拭を図る。

セダンボディでも四駆は珍しくなくなり、オンロードが前提のフルタイム四駆システムがFF化されたセリカの頂点を飾ることに。インタークーラー・ターボ、ツインカム4バルブ、と満艦飾で国際ラリーの表舞台でも目覚ましい活躍をはじめ、関東北部のスキー場では、某スキー映画のわき役として撮影が進められていた。

リアやセンターのピラーを覆ってガラス張りに見せるセリカのグラッシー・キャビンをそっくりまねた軽のクーペ、ダイハツ・リーザが登場する。後席軽視の40ナンバーではあるものの実用上は問題なし。実用重視の軽にもスペシャリティが求められる時代になってゆく。スバルの軽,REXもFF化以降で第二世代に。ますます室内空間を大きく取ったデザインに。

高級パーソナルカーという新市場を開拓したソアラが5ナンバーサイズに収まる新型にモデルチェンジ。その広大なドアの開口幅を確保するための平行4リンク式ドアヒンジという新機軸がユニークだった。デジタルメーターも一歩進化して、反射鏡に移った虚像を見せることで、老眼鏡をかけずにくっきりと計器盤が読み取れるようになる。最強版は3リッター・ツインカムエンジンを搭載するほか、5ナンバーにターボも用意されるのは従来通り。

トヨタFFの尖兵だったコルサ・ターセルは一般的な横置き配置のE型エンジンに改められ、スターレットEP71と大差ない構造になる。3ドア車にはリトラクタブルのヘッドライトが標準で夜間のお買い物にもライトの上下を伴うメカが目新しかった。もう一方の大きなFF車=カムリ・ビスタも第二世代に移行した。こちらもブームに応じた4ドアHTを追加するほかV6エンジン搭載車が加わり、のちに北米レクサス・ブランドではESの母体となって販売の主軸を担ってゆく。

マツダが第三の販売チャンネル=オートラマ向けに専売車種として用意したのがファミリアのデザインを縮小したようなフォード・フェスティバ。韓国起亜自動車でも長年生産され、日本にはない5ドア・バージョンは日本にも左ハンドルのまま輸入されたが当時の工業水準の差からか国内向けと同等とは言えない代物だった。フェスティバの系譜は以後兄弟車を多く設け、デミオ・マツダ2と改名されてマツダのボトムレンジを長年受け持つことになる。やがてはヤリスの車台に統合され独自のシャーシ開発は途絶えてしまうかもしれないが・・・・・

ホンダがF1エンジンを供給するウィリアムズチームはマンセルとピケの両雄が大活躍。総帥のフランクが事故で重傷を負う中、チームにコンストラクターズ・タイトルを授けた。

50cc原付にもヘルメット着用が義務付けられ、すべてのバイクはメットなしには気軽に乗れなくなる。HY戦争とまで言われた二輪車の激しい販売競争も一服し、原付50ccスクーターの先鋭化だけは激しくなってゆく。

それはプラザ合意に端を発した円高も同様、円の為替レートはみるみる上昇し、大島三原山の割れ目噴火のように日本経済を混乱の極みに陥れようとしているのだった・・・・・

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