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スプートニクショックに新性能国電で新しいコ○ナ時代へ1957の日本国産車

人類史上初めて人工物体が地球周回軌道をまわりはじめた!というニュースはとりわけアメリカの軍事開発部門の人間を震い上がらせました。打ち上げに成功したのが当時のライバル=ソ連だったからです。その頃日本の自動車産業はまだまだ、アメリカから大きく遅れた周回遅れの位置にいました。試しに輸出した国産車はどれもハイウェイでのあまりの性能差に愕然。

戦前に大量の戦闘機を生産していた航空メーカーはことごとく解散か分割させられて、飛行機以外の食い扶持を探さねばなりません。電気自動車で一定の需要を取り込んでいた、立川飛行機由来のたま自動車も単独での生き残りより合併の道を選び、名門中島飛行機の流れを汲むプリンス自動車となってトヨタのクラウンに負けない本格的な乗用車の量産を目指します。
当時の5ナンバー枠一杯の1500エンジン搭載の中型セダンはスカイラインと命名され、乗用車メーカー3位の座を目指します。サイズはほぼクラウンと同等でしたが、差別化を図るために後輪サスペンションには高度な技術を要した独立式を採用し、乗り心地向上を狙います。このボディは後にはグロリアと命名されてプリンスの上級車ともなり、スカイラインも二代目ではこれよりも安価なクラスを狙った小型車に趣旨替えします。

既にクラウンで法人需要から個人オーナーまでをカバーしていたトヨタは、ダットサンのような小型車市場にも切り込みを狙い、クラウンの商用車版、マスターの部品を多用して,1000ccクラスのコロナを新規に開発します。車体は開発済みの部品が多く、寄せ集め的な代物でしたが、販売網には既存のトヨタ店系列とは全く違うトヨペット店を組織し、コロナを専売商品とします。

法人需要から商用車迄扱うトヨタ店系列と違いトヨペット店に赴いてもクラウンは買えない道理。コロナが狙った客層はクラウンに手が届かない、さらに多くの潜在的顧客が望めるであろう一般大衆でした。両系列の店舗が隣り合っても客の奪い合いにはならない理屈です。地方都市に多く見られた小型タクシーの枠に適したコロナは後に登場するブルーバードと激しい販売合戦を繰り広げますが、それはまだ数年先のこと。間に合わせのコロナに代わるべく、白紙から設計した新型のコロナ開発が急務でした。お供え餅のような、雪だるまにような饅頭を重ねたようなスタイリングから可哀想にダルマの愛称を頂きます。

その当時の日産は、まだイギリス・オースチン社のモデルをノックダウン生産中、次第に国産化を進めているまっ最中で、ブルーバードの前身=ダットサン210型が小型車の需要に応じていました。これはオースチンから数多くを学んだ日産の独自開発車で、リッターカー・クラスの4ドアの小さな2・5ボックス。クラウンの様な立派なトランクルームは無く、質素を絵に書いたような様な時代遅れのデザインは余りに実用一点張りのものでした。110系から続くピックアップトラックも220系に改まり、ダットサントラックの名称をもらいます。やがて北米でのドル箱に成長し、貿易摩擦迄巻き起こす存在になるのですが・・・・

当時、個人でクルマを所有できたのは、多くが個人商店主。まだまだ商用車の需要が小型車市場の過半を占めた時代で、ダイハツもマツダも含めて三輪トラックを得意としたメーカーは今よりも数多く存在していました。とりわけダイハツの軽自動車枠に収まる3輪トラック、ミゼットは黎明期だったTVコマーシャルでも話題をさらいました。関西の人気芸人、大村崑がミゼットの名前を連呼するのは番組内で生CMと呼ばれる広告枠、今に連なる生コマのひとつでした。ミゼットの大ヒットはライバル=マツダの軽3輪トラック開発を促したほか、長年にわたって、軽商用車の普及を後押しします。ミゼットの中古車は海外にも広く普及し、東南アジアでは今でもトゥクトゥクなどの3輪タクシーの原型として長く愛され続けています。

まだまだ当時の軽自動車枠に収まる一人前の軽乗用は開発される前。ミカサツーリングという小さなメーカーの2シーターは3m枠に収まるボディにオートバイのようなスポークのホイールを4つつけたような、とてもクルマらしさは感じられない質感。1960年には命脈を断つ。

海の向こう、イギリスでは財布の軽い若者のための安価なスポーツカーを生産する小規模のバックヤード・ビルダーが繁盛し、量産車の部品を使用したリーズナブルな価格のスポーツカーがいくつも存在しました。コーリン・チャップマンの興したロータス・カーズも、軽量ボディを旨とするロータス・セブンと、オールプラスチック製ボディのエリートを送り出します。イギリスでは完成車の他に組み立てキットとしてもクルマの販売が可能で、これにより完成車に掛けられる割高な完成車税を逃れることができました。会社から部品一式が届いたら、自宅のガレージでコツコツ自分のクルマを組み立てる、そんなカーライフが楽しめたものです。

エリートのFRP技術は後々ロータスのお家芸になり、セブンは生産設備と名称もろとも関連メーカーに売却されいまだに高い人気を維持しています。

今も人気と言えばルパン3世の愛車フィアット500もまたイタリアの老舗、初代のトポリーノは戦前のヒット作でしたが二代目チンクェチェントは姉貴分の600を縮小した様な軽自動車サイズ。日本車にも多大な影響を与え数多くの個体が海を越えてこの地に棲息しています。

東京の街にカラフルな色の通勤電車90系(のちの101系)が登場したのもこの年.ウォームギアの唸り音がしない、新世代の電車のプラット・フォームを持つ、電車の革命児でした。モーターと車軸をフレキシブルなジョイントで結び、大きなモーターを台車に固定できたことが高性能化の幕をあけたのです。これが特急型電車の開発に発展します。他方で非電化区間にはディーゼルエンジンと流体式(自動)変速機を持つ大型気動車、キハ20系列が誕生します。全国どこの国鉄ローカル線にも乗り入れ可能で単行でも運転できる万能選手は全国に広まります。

東京タワーの完成ももう間もなく、でも東京で受信できる民放テレビ局はまだまだ二つしかありませんでした・・・・・



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