PLのあの二人、ワイドショー戦争とヤラセの夏
1985年夏
それは、日航機事故報道に力点を置く各局や清原・桑田の活躍を二の次におけない放送協会とは違って、テレビ朝日にとっては忘れられない夏になってしまった。
ヤラセ事件の発覚で、取材対象となった女性の母が命を絶ってしまったのだ。
社長自ら放送で謝罪、番組は打ち切り。加熱する放送合戦も一つの転機を迎えた。
そのころ、日本ではワイドショーという情報番組に各局とも力を入れ始めており、ワイドショー戦争なる言葉も聞かれるようになっていました。発端となったのは社章ごとリニューアルした目玉マークのフジテレビのワイドショー番組「おはようナイスデイ」とそれに追随した各局のライバル番組でした。
数人の専属レポーターたちが毎日、日帰りで列島を駆け回り、芸能ニュースから三面記事迄くまなく取材して、ワン・コーナーにまとめ上げる。これが一つのひな型となったのでした。
話術巧みなレポーターがマイク片手に現場でまくしたてる、その原型ともいえるのがウィークエンダー・テレビ三面記事という番組です。紙芝居のようにレポーターの一人しゃべりで事件のあらましを面白おかしく伝え、そのまくしたてる講談風の口調で人気者となったレポーターの一人が駆け出しのころのピン芸人だった泉ピン子でした。
フジテレビのナイスデイはじめ各ワイドショーにとって格好の素材となったのは週刊文春に連載された疑惑の銃弾シリーズ、保険金詐欺疑惑をかけられた三浦和義元社長をめぐるニュース合戦です。美しい妻を銃撃されて、その献身的な看病ぶりが美談とされていた元社長に一転、保険金殺人の疑惑が降りかかる。容疑者として別件で逮捕されるまでに元社長の名前と顔は一躍、日本中の関心を集めたのでした。
他にもグリコ森永毒物混入菓子事件など年を跨いで取材が続く大型企画も続出、ワイドショーにとっては美味しい季節でもあったのです。
ワイドショーといえども事実を伝えるのは報道と同様。ただ多少ドラマチックな演出のために効果的なBGMを流したり、手書きのおどろおどろしいタイトル文字をsスーパーインポーズで画像に被せたり・・・・・そうした過剰な演出の行き着く先は、ありもしない事実を映像化する=ヤラセ取材に手をつけたことでした。
1985年の盛夏
8月初頭に暴走族グループの会合で行われた女子中学生のリンチシーンが実は制作ディレクターの要請で用意されたものをあたかも隠し撮りしたかのような演出でみせ、関係者には謝礼まで渡していたことが発覚。刑事事件として改札宇賀捜査を開始し、関係者の母親が自殺していたことも判明する。
当該の制作ディレクター逮捕を受け、番組の即時打ち切りや幹部の減給など全社的な処分が課されたのはもちろん、全スポンサーが降板という厳しい末路が待ち構えていた。
もしもこの時点でニュース・ステーションが始まっていたら(放送開始は同年秋改変)久米宏はどんなコメントを添えていたのだろう?
テレ朝のみならずワイドショー全体にも大きな禍根を残したヤラセ事件はテレビ報道への信頼を失わせ、安易な制作態度が批判の矢面に立たされる結果ともなったテレビ会全体の汚点でもある。
件のディレクター氏の仕事ぶりは退社した後も番組制作に生かされ続け、未経験の女性タレントにアダルトもの出演を強要したり、当のテレ朝までもが再びヤラセで批判を浴びるなどと伝統だけは引き継がれているようでもある。
ENG取材という、機動力を生かした取材の方法がワイドショーの隆盛を支えたとも言えるが、反面現像処理を伴わない編集作業はオンエアまで密室での作業も可能になり、監視の行き届かない「さくひん」を生み出す結果にもつながっていった。
事件から38年を経て、あのヤラセ事件も一般視聴者からは忘れられがちに。当時を知る社員もごく一部が経営陣に名を連ねる程度のはずである。