朝顔の呪い

「お疲れ片岡。ほら、これやるよ」
「あっ師匠、待っててくれたんですね。ありがとうございます」

バイトの夜勤上がり、ふいに差し出された缶コーヒーを受け取った。結露で湿った表面を軽くTシャツでぬぐってプルタブを開け、ゴクゴクと音を立て一気に半分近い量を飲み干す。この瞬間が最高に生きているという感じがする。

「あー美味しい。生き返ります」
「だよな、わかる」
「けどこういう時はビールの方が良くないですか」

そう言って私がおどけてみせると、師匠は呆れたように息を吐いた。

「片岡さあ、お前まだハタチになってねーだろ」
「誕生日8月なんで、来月ですよ。実質20歳です」
「じゃあ誕生日過ぎたらビールにしてやるよ」
「本当ですか? 絶対ですからね」
「はいはい」

そう言って笑って師匠はポケットから煙草を取り出し火をつけた。ゆっくりと吸い込んで細く長く煙を吐く。ただそれだけの仕草なのに目を離せない自分がいる。整った横顔も、ピアスも長い前髪も少し猫背なところも、私にとっての「好き」は全て師匠が持っているものだと思った。

「ん? 何だよそんなにこっち見て」
「あ……いや、煙草いいなぁと思って」
「ガキはコーヒーで我慢しろ〜」
「仕方ないですね」

初めはどちらかというと苦手だった。アイスコーヒーも師匠のことも。師匠は一匹狼で近寄りがたく独特のオーラがあって、平凡な自分とは縁のない人種だと思っていた。

師匠はカラオケ屋のバイトの先輩で、大学ニ年生である私よりいくつか年上だ。初めは業務以外で話すことはなかったのだが、とあるゲームの話題で意気投合し、彼が界隈で有名な凄腕配信者である事を知ってからは師匠と呼んでいる。オンラインで一緒にプレイしたり、師匠の家に行って朝まで対戦したこともある。

仲良くなってからはシフトが被ると一緒に帰るようになり、彼がくれるコーヒーを無理して飲んでいたらいつの間にか好きになっていた。

ーーアイスコーヒーの苦味も、師匠のことも。

コーヒーを飲みつつ他愛のない話しをしながら駅までの道のりを行く。夜勤明けの始発が動き出したばかりの日曜日、薄暗い商店街に人はまばらで私たちの笑い声だけが響いていた。

ふいに、師匠が立ち止まる。

「どうしたんですか?師匠」
「いや……朝顔。目に止まってさ」

師匠の目線を辿ってみると、レトロな個人経営の喫茶店の前に、膨らんだ蕾をつけた朝顔が植えられていた。

「まだ蕾ですね。もう少し日が登ったら咲くんじゃないでしょうか」
「じゃあ夜勤上がりにここを通っても咲いてるところは見られないんだな」
「もう少し暑くなれば見られると思いますよ」
「そうなのか?」
「ええ、季節が過ぎるにつれて朝顔の開花時間は早くなるんですよ。今は7月だから日が登ってしばらくしてからじゃないと咲かないですが、8月の朝顔は明け方咲いて、9月の朝顔は夜咲くんです」
「へえ、いつでも朝咲くもんかと思ってた。片岡頭良いな」
「それほどでも。師匠は朝顔好きなんですか?」
「別に好きってわけじゃねえんだけど」

師匠は少し考えるふうを見せた後、静かに語り出した。

「子供の頃、夏休みの宿題に朝顔の観察日記ってあっただろ。丁度その頃母親が入院してて、書くたびに病院に見せに行ってたんだよ。褒められるのが嬉しくて俺にしては一生懸命書いてたよ。花が咲く瞬間を見て日記に書くから待ってろって母親に宣言してたんだが、ガキだからいつ咲いてるのか分からなくて結局一度も咲く所に立ち会えたことはなかったな。なんかそれが後悔みたいな感じで、今も覚えてるんだよ」
「観察日記って懐かしいですね。可愛い子供じゃないですか、お母さんも嬉しかったでしょうね。入院されてたってことですけど今は元気ですか?」
「いや、その夏に死んだよ」

あ、デリカシーのない事を聞いたかも。
と私は言葉に詰まった。

「そうでしたか……すみません」
「昔のことだし今更何とも思ってねえよ。ただ朝顔っていうのは俺にとって後悔の象徴みたいなモンなんだって話」
「そうだったんですね」
「そ。ほら、もう行こうぜ」

そう言って師匠は立ち去ろうとしたが、私はまだ朝顔の前で思索を巡らせていた。

「このまま咲くまでここで待ってみるっていうのはどうでしょう?」

師匠は面食らったような顔で固まり、その後滅多に聞かない大きな声でアハハと笑った。基本ローテンションな師匠にしては珍しいことだ。

「日が登ってしばらくしてからじゃないと咲かないんだろ? 何時時間待つんだよ。夜勤明けで疲れてるし嫌だ」
「ええー、師匠には情緒ってモンがないですね」
「8月になれば明け方に咲くんだろ。その時に通りかかったら見れるだろ」

そう言って師匠は私の手から缶コーヒーを奪い取り、残った中身を飲み干した。
こちらの気も知らないで簡単にそういう事をするから、この人はずるい。

「その時は片岡もハタチになってるだろ」

師匠はニヤリと笑って私の肩に手をかけた。ふわりとシャンプーのような香水のような甘い香りがして、心臓の鼓動が早まる。ささやかなボディタッチが嬉しくてたまらないのに、私は照れ隠しで悪態をついて師匠の腕を振り解いた。師匠は生意気な後輩だ、と言いながらも機嫌が良さそうにしている。
しばらくじゃれあって一呼吸置いた後、師匠は私に優しい声色で言った。

「朝顔見ながらお前とビール飲んだらさ。朝顔を見て思い出すのは絵日記の後悔じゃなくて、多分片岡のことになるよ」

その言葉で、私は呼吸が止まってしまう。
朝焼けに白んできた空とまだ眠っているような街が神秘的で、この瞬間は世界に二人だけのような気がした。

師匠に私の思いを告げることはないだろう。
悲しいけれど、いつかどちらかがバイトを辞めて引越したりしたら、いつの間にか疎遠になるような関係だと思う。所詮そんなものだ、バイトの先輩後輩なんて。

だけどきっと彼も私も、朝顔を見るたびに互いを思い出すのだろう。

嗚呼、それはなんて素晴らしい、朝顔の呪いだ。


お題:「朝顔」「アイスコーヒー」「シャンプー」

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