「観心本尊抄」第11章から第15章までの構成 2024年度「青年部教学試験1級」研鑽のポイントメモ
第6段「受持即観心」を明かす では、教主釈尊に関する問が主であり、全体感に立って文章を追えないと混乱を招きますので、池田先生監修のテキストから構成を抜粋させていただきました。
まず、第11章で、教主釈尊に関して尋ねるより、
迹門や爾前経の立場で論ずれば、教主である釈尊は始成正覚の仏である。また、成仏した結果として得られた境地から(仏の偉大さを)論ずれば、教主である釈尊は始成正覚の仏のとして、四十余年の間、蔵·通·別·円の四教を説くにあたり、それぞれの教えに応じた仏身を現し、爾前経·爾前迹門·涅槃のなどを説いてあらゆる衆生に利益を与えたのである。(中略)
このように釈尊は、劣応身·勝応身·報身·法身の四種の身を示され、八十歳でお亡くなりになった後も、自身の遺骨を留め置いて正法·像法·末法の時代の衆生に利益を与えたのである。
第12章 ▲経典·論書に関して尋ねるより、
(省略)…▲爾前の諸経と法華経とを比較してみると、爾前の諸経は無数であり、説かれた期間は言うまでもなく長い。(中略) ▲その上、多い方を捨ててわずか八巻しかない法華経を用いるとしても、法華経の経文に明らかに説かれているなら少しは頼りになるだろうが、法華経のどこに、十界互具·百界千如·一念三千の明らかな証拠となる文があるのか。(中略)
▲一念三千の法門は、釈尊一代の権教·実経の両立にそうした名称はなく、示依である大学者たちもその教えを書き記していない。▲中国·日本の学者も用いていない。▲どうして信じることが出来るだろうか。
第13章では、経典·論書に関する難問に答えるより、
答える。(省略)…爾前経と法華経の相違については、(中略)「まだ真実を顕していないか、すでに顕したか」「多宝如来、十方の世界の分身の仏たちによる保証なのか、阿弥陀経と「舌相」程度の保証か」「二乗の成仏を説いているか、説いていないか」これらの違いが、爾前経と法華経の相違を明らかにしている。(省略)
第14章 教主の難問に答えるに当たり、まず難信難解を示すから、
しかし、どうしても疑問を解消し難いのは、先の「あれほど偉大な教主である釈尊が凡夫のこの心に住まわれるのか」という大きな難問である。(中略)
釈尊の存命中を起点として、亡くなってから千八百年余りに至るまで、仏法はインド·中国·日本の三国に広まったが、ただ三人だけが、自らこの正法を覚ったのである。すなわちインドの釈尊、中国の天台大師、日本の伝教大師である。この三人は、仏教の聖人である。
(中略)天台·伝教以後、一念三千を知る者は非常に多い。それは、この二人の聖人の智慧を用いたからである。(概略→あらゆる賢者は)初めは一念三千の説に反発していたが、後にはまったく屈服したのだった。
第15章で、教主に関する難問に答えるから、
略「あれほど偉大な教主である釈尊が凡夫をこの心に住まわれるのか」という最大に難問を解決しよう。(中略)
よくよく考えてみれば、釈尊の一代の説法の中に、顕教·密教、大乗·小乗、華厳·真言などの各宗がよりどころとする経典があるが、(中略)ただ始成正覚の成仏だけを説いて、久遠を成仏の因果を顕してはいない。また、「たちまちに成仏する」ということを説いているといっても、三千塵点劫·五百塵点劫という久遠の過去における教化を見失い、釈尊の教化がいつから始まって、いつ終わるのかということが、まったく分からない。(中略)
結局のところ、一念三千という仏種でないのなら、有情(衆生)な成仏することも、また(非情である)木像や絵像の本尊を立てることも、有名無実なのである。
(現代語訳観心本尊抄 池田大作先生監修から)
なお、第16章からは、通常モードに戻します。