[参考] なぜ、文字曼荼羅なのか。
FC2ブログ 「創価教学随想」谷健二郎さんのものを参考にさせていただきました。
文字曼荼羅 (4)(文字について先生の指導)
文字曼荼羅について
『御書の世界第2巻』 「御本尊(下)」
から抜粋とのこと。
斉藤
大聖人は、「観心本尊抄」 で、御本尊を 「此の仏像」(248P) と仰せです。 しかし大聖人は、木像や絵像ではなく、文字の曼荼羅として顕されています。
この点、なぜ 「文字」 の曼荼羅として御本尊を顕されたのでしょうか。
名誉会長 大聖人は、「木絵二像開眼之事」(468P) で、仏が具えた主要な特徴である 「三十二相」のうち、梵音声だけは、色心二法に分けた時、唯一、心法に属するゆえに、木像・絵像では、仏のすべてを表現しきれない、と指摘されています。
心には、時間・空間を超えて無限に広がる豊かさがある。 まして仏の心は、絵や彫刻では表現しきれない。
森中 見えないが厳然として存在する永遠の 「法」 は、視覚的には表しがたく、文字を使われたということですね。
名誉会長 また、絵や彫刻などでは、それを拝した時に受け止め方が違ってきてしまう。 どうしても目に見える “表現” のほうにとらわれがちで、表現が象徴している “真理” に思いを致すのを妨げることもありがちです。
………
名誉会長 絵や彫刻などでは、永遠にして普遍的な法を表現するのは困難です。
御本尊が、万人に対して 「永遠の法」 即 「永遠の仏」 を顕し、弘めるために、像ではなく文字で表現されたことに深い意義を拝することができる。
森中 確かに、文字を見ると、“誰が書いたのか” “どういう意味か” と考えます。 「書いた人」、「書いた人の心」 へと思いを至らせるはたらきが強いですね。
名誉会長 文字は、「心」 へ、「因」 へと導きます。 これに対して、絵・像は、「果」 に執着させる傾向がある、と言える。
森中 たしかに、できあがった絵や像の美しさや巧みさにほれぼれとし、その作者の心へはなかなか思いが至りません。 ………
斉藤 木像・絵像は、因果の功徳のうち 「果」 の方の表現であり、しかも色心二法のうち色法に過ぎない、と言うことですね。
名誉会長 それゆえ、決して、南無妙法蓮華経という因行果徳をすべて具足した根本法を表し尽くすことはできません。
色心二法のうち、心は言葉で表されます。
御書にも 「言(ことば)と云うは心の思いを響かして声を顕すを云うなり」(563P) と仰せです。 そして言葉は、文字によって記し伝えていくことができる。 仏の心が文字に記され伝えられたものが経典です。 文字は 「心」 の表れです。 その文字に、永遠に人々を救う仏のはたらきが具わるのです。
大聖人は 「仏は文字に依つて衆生を度し給うなり(=仏は文字によって人々を救われるのである)」(153P) と仰せです。
また 「所詮修多羅と云うも文字なり文字は是れ三世諸仏の気命(いのち)なりと天台釈し給へり(=つまるところ、経といっても文字である。 『文字は三世の諸仏の命の源である』 と天台大師は釈されている)」(381P) とも述べられています。
さらに 「滅せる梵音声かへつて形をあらはして文字と成つて衆生を利益するなり(=釈尊が亡くなって、すでに滅んでしまった仏の声がかえって形を現して文字となって人々に利益を与えるのである)」(469P) とも仰せです。
斉藤 仏の滅後は、文字が、仏のはたらきをなし、民衆を救うのですね。
名誉会長 ただし、大聖人は 「木絵二像開眼之事」 で、文字で記されたもののなかでも高低浅深があると仰せです。 人々を導くためにその能力に合わせて説いた 「随他意」 の経典と、仏の真意を直ちに説いた 「随自意」 の経典との違いがある。
だからこそ大聖人は 「観心本尊抄」 の後半で、末法流通の本尊を選び定めるに当たり、序文・正宗分・流通分の三段を五重に用いて、仏の真意を明らかにされているのです。 いわゆる五重三段です。 (御書の世界第2巻・222~226P)