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言葉がすき

Twitterを始めて10年になる。

10年?10年だ。10年もあればわたしの身体の細胞はぜんぶ入れ替わったとおもう。それでも毎日飽き足らず、新しい細胞でできた指で、青い鳥のアイコンを開く。

当時10歳だった妹もハタチを迎える年になり、わたしには遥かに手の届かない大学の受験に挑んでいる。彼女がせっせと勉強している間、わたしは熱心に画面をスクロールしていたことになる。

Twitterを始めたのは、高校生のとき。やっと買ってもらったガラケーで、折り畳みの小さい画面をにらみ、ブラウザからページを開いて登録した。

顔の一部と化していた眼鏡をコンタクトレンズへ変えてそわそわしていた内気な女子高生にとって、ひとと心を割って話すことへのハードルは富士山より高くて、それでも他の人間が何を見ているのか、考えているのか、すごくすごく興味があった。飢えていた。

そんなときに開かれたSNSへの扉。同じ部活の友人、生徒会の彼、隣のクラスの男子。皮肉めいたユーモア、構ってちゃん、先生や学校への愚痴、普段は触れられない彼ら彼女らの思考。ハマってしまった。

この10年でSNSが社会的立場を得、Twitterにも意識高い系、炎上目的の過激系、出る杭が凹んでも叩くのをやめない系、はたまた企業広告まで、なんだか"表"のメディアになってしまった。こんな環境下でも未だに自分の心情やら感情を小出しにしている超個人的なわたしのアカウントは、もはや絶滅危惧種である。普段は呟かない友人たちもタイムラインだけは追っているらしく、たまに「あのツイートってさ」みたいに言及されると顔から火が出るかと思うときもある。

それでもずっと続けているのは、続けてしまっているのは、きっと言葉がすきだから。じぶんが言葉を紡いでいくことも、ひとがポロポロと落としていく言葉を味わうのも。

学生時代、カリスマ的センスを持つ友人Sに熱烈な憧れがあった。彼女はまた独特な言語センスを持っていて、含みのある、具体的になにを指しているのかわからない文章を書くひとだった。わたしも真似をして、たとえば心が動いたとき、中身への具体的言及は避けて上澄みだけ言葉にする、というようなことを続けてきた。

それを10年積み重ねた結果、いやもともとの性質だったのかもしれないが、現実のわたしは喋りとしての言語化が非常に苦手である。上澄みを140字以内で表現することは得意だが、中身の詳細が伝わるように説明するとなると恐ろしく不得手なのだ。

だからTwitter10周年を機に、もっと言葉と向き合うために、長い文章をかけるよう訓練していこうと決めた。きゅうに喋りとしての言語化を訓練するのはちょっと大股歩きすぎるので、まずは文章を書くことから。

note、ひっそり始めます。

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