歳差運動3-⑪
会場の玄関を出ると、すでに駐車場は帰路に向かおうとする車の波でごった返していた。車間距離をできるだけ詰めて急いで出ようとする車の流れに殺気立った雰囲気さえ感じられた。そんなに慌てなくても必ず駐車場から出られるのにと思った。 だがそれよりも、さっきまで道徳を研修してきた学校教育の将来を担う若手教師たちの醜態に遭遇し、がっかりもした。ひとたびハンドルを握るとあおり運転も辞さないドライバー心理の変貌は、教師とて同じ穴のムジナなのか…
水を連想した。 澄んだ水は日の光を受けるとキラキラと美しくきらめく。迷路のような器に張ったとしても、丁寧に傾きをつくってやれば出口に向かって淀みなく整然と水は流れ出る。ところが、激しく傾かせばどこかで水は跳ね上がりこぼれ落ちる。底に砂が張ってあればそれと混ざって濁った水となろう。
一番遠くにあるマイカーにやっと辿り着きエンジンをかけた。 どうせ、あと2,30分は出られないだろうと急ぐのを端っから諦めていたので、車の中で道徳についてもう少し考えてみることにした。
道徳で教えようとする価値項目、確か20何項目かあったはずだ。 その中でも特に違和感をもっているのが愛国心、我が国を愛する心だ。 日本に生まれ育てば自然と培われる心なのに、もっと…もっと…とやるような気がして不自然に感じる。たとえばオリンピックなどスポーツの国際大会で日本代表選手が出場すれば他のどの国の選手より応援したくなり、活躍すれば誇らしい気持ちに自然となるはずだ。しかし、国の政治が乱れたり、凶悪な犯罪が多発したりすれば国の在り方やその姿に少なからず嫌悪感を抱くに違いない。後者のような事態が常態化すれば、国を愛せよといくらハッパをかけても無理だろう。その我慢の限界を越えた姿がおそらく難民という形の事態なのだろうと思う。 家族愛とか郷土愛とかなら納得だが、国を愛する心を育むのは社会の有り様なのではないだろうか。だから違和感がある。
車を走らせ30分は過ぎただろうか… 見渡す限り田園風景が広がる田舎町に差し掛かった。このまちには大伯母が嫁いでおり、子どもの時分によく遊びに行った。そこで見せてもらった伯母の尋常小学校時代の通信票(そう書かれていたと思う)を思い出した。 表紙をめくると、“教育勅語”なるものが1ページを占めていた。その右のページが成績表になっていたような気がする。「歌唱」とか「つづり方」とか「体操」などの項目があり、今でいう音楽や国語や体育なのだろうと思い至った記憶が残っている。しかし、「修身」という項目が読み方もどんな勉強内容なのかも考えつくことができなかった。 だから、大事な勉強なんだろうなと子どもながらに思ったものだった。
教師になった今なら、おそらく道徳にあたる内容項目だったと理解できるが… 修身…身を修めるとは? 国の教育機関が定めたあるべき“人の姿”をどのくらい身に付けたかを問うていたのであろう。
道徳が教科化になり、価値項目を身につけることが評価の基準になったのだから、大正初期生まれの大伯母の時代に舞い戻った気がした。それと同時に、20何項目全て身につかなければ、いびつな人間と評価されてしまうのか、心配がよぎった。
~続く