笑いが起きその場が和んだので、それを壊すのは勿体ないと思い、間をとることにした。よそよそしかった冷たい雰囲気があっという間に氷解し、お隣さん同士でひと言ふた言とことばを交わすほどになった。俺は司会者に向いているのだろうか… 微笑んでいる彼らの表情を見て、若いというのはかけがえのない宝ものだと今さらながらしおらしく思った。表情を崩しただけであんなにも魅力的になる。これは若い教師の特権だよ、みなさん…教室ではいつもニコニコしていようね!なんて子どもに投げかけるよう
参加者名簿の通し番号と班別の組み合わせによるグループ別の話し合いになるとのことだ。 俺は通し番号の下一桁が4でC班、“しーしー”なんて嫌な語呂合わせだぜ。厄介者を追い払う隠語だよ。 俺は確かに厄介者に違いないが… 同じ学年を担当している異なる市町村の学校から参加している10名前後が話し合いのグループを構成する。 実践報告と意見交換が話し合いの主旨となる。 俺たちのグループは俺を入れて9人。お互い知らぬ者同士のようだ。もちろん俺
大舞台での儀礼的催事が終了し、場所を変えて本格的な研修に入った。 分科会と称した参加者同士の話し合いになる。 中規模の会議室に移動した。 俺が入ったのは三間続きの小綺麗な部屋だった。薄いベージュのペンキが真新しい、瀟洒なつくりの落ち着いたイメージが第一印象。壁の色が即目に飛び込んできたのは張り紙などが全くなかったからだろう。よく見ると時計すらかかっていなかった。病院の病室のカーテンなどを除けたらこんな感じだろうか? 今流行のユニバーサルデザインというのか?
首筋を傷めた瞬間、心のたががはずれた。 おそるおそる顔を上げ、頭を動かさないで左右に目一杯視野を広げてとなりの参加者の様子をうかがった… すると、メモを取るなり資料に目を通すなりして居眠りしている人の気配は感じられなかった。 今度は、自分の背中に第六の感覚を移し、後ろに座る若者たちの様子を透視してみた。 これまた誰もが真剣な顔つきで話に聞き入っている姿を捉えていた。 自分が恥ずかしかった。 居眠りしてい
主催者、つまり教育委員会の教育委員長が露を払った。 何を言っているのか意味不明だった。学校教育で使われている美辞麗句の羅列にしか聞こえず、胸に迫ってくるものが何もなかった。学校現場の課題と道徳の授業との関係性についての理念らしきものがどこからか拝借してきた付け焼き刃の急こしらえの感じがして、この立場にある教育者としての力量に疑問符をもたざるを得なかった。 講師として文科省から派遣されてきた官僚に、なぜ今道徳の教科化が必要なのかガツンと自分の思いをぶつけてもらい
職務命令に屈した悔しさを、俺は“気晴らしに行くんだ”という小さなプラス思考に転換して道徳の研修会に行くことにした。 それでも消極的参加態度は拭えず、開始時刻ぎりぎりに着いたものだから、郊外の巨大ショッピングモールにあるような広々とした駐車場の会場入り口から最も離れた駐車枠に愛車を留めることを余儀なくされた。 碁石のように整然と並んだ数々の車の間をパックマン(古いよなあ)のように、そして“俺は直角”(もっと古いなあ)のように直進と90◦転換を繰り返して、やっと大規模な文化総
それから2週間が過ぎたある朝。 いつものように気だるく出勤して職員室の自分の机に辿り着くと、薄ピンク色のクリアファイルが無造作に置いてあるのに気がついた。 いつも机上の整理整頓を欠かさずに退勤しているから自分のものではない何かが置かれていれば無意識でも気づくことができる。しかも無造作に、つまり机上の位置関係を気にせずに置かれていたのだから曲がったことが大嫌いな俺のストレスホルモンを刺激するには十分であった。明らかに誰かの意図を感じる置き方のように思えた。 早速中身を吟味
これで彼女の管理職としての力量、校長になるまでの経緯が理解できた。苦労人でもなければキャリア組でもないことが判明した。暗くて深い川を自力で泳いできたのではなく、安全な船旅を選んできたのだ。それも豪華なクルーズ船なんかでなく大衆向けの寄り合い船。その中の名もなき乗客の一人が彼女という訳である。 天見校長は先ほどの会議の席上で、我々職員にも読書の必要性を訴えた。自分でもそうして学んできたといわんばかりだった。けれども、そのようなたしなみが彼女にあるのかどうか大きな疑問符がついた
「あなたのような主義主張する先生は、私初めてです!なんなんですか…キュウケイジカン休憩時間と、そんなに連呼するなら自分で休憩時間つくってください…そうね、子どもたちが帰った後に堂々と休憩するか…なんなら退勤してもらっても構いませんよ」 怒りを一気に吐き出すような口ぶりで、職員室は水を打ったように静まりかえった。 特に女の先生たちは震え上がった表情をしていた。 俺はというと、彼女の声のトーンが琴線にふれた瞬間に知らんぷりを決め込もうと眼鏡を外
「集会活動の実施については仕方がありません…ただ…給食の後の時間帯についてですが…給食の後、つまり食後というのは休憩時間ではないかと思いますが……教頭先生は休憩時間についてはどのようにお考えですか?」 「ん…休憩時間って…まあカラダを休める時間ですよね。その間、お茶を飲んだり…雑談したり…しかし、実際にはノートをみたり、子どもと遊んだりして大変だと思いますが…」 天見校長の視線がこちらに向いていた。肯定的な表情でないのは明らかだ。 が、構わず 「それじゃあ、休
狼狽する教頭。 民主主義の精神に基づいて正負両論を平等に拾い上げるのが名議長だが、すでに顔色を失っている教頭にはもとよりそんな力などはない。 しばらく逆行意見を待つが、ポロロッカを食い止めるようなハナシは出てこなかった。 そこで切り札として出したのが理性的な教師樫木教務の指名なのだろう。 こっちに向かって襲来してくる大波の防波堤になってくれるし、自分と同じ側の川岸に立つ人間だとの確信を持っているからに他ならない。
「時間に余裕を持つってのは大事ですよね。心の健康にもつながるし…給食の片づけが間に合わなくて急いで体育館に走っていったりするときもあるんですよ!それに…会計処理で銀行にお金を納めに行かなくっちゃならないこともあって…それは昼休みにしか行けませんからね」 最古参が笑顔で言った。 先ほどの発言と完全に矛盾している。 いや、むしろ一致しているのかもしれない。彼女はほとんど定時に退勤している。帰宅した後、孫の面倒を見るのが楽しいと言っているのを聞いたことがある。
深くて暗いルビコン川に賽を投げてみた。 「あのーすみません…何度も」 とわざとしおらしく遠慮がちに言った。 “おいおい、またおまえか”という顔つきで 「種田クン」 と吐き捨てた。 「ええーと…また日課表のことですが…6ページにある日課表の原案で、木曜日のところです。毎週設定されている集会活動…ちょっと負担が大きいので何とかならないかと…」 理由など言わずに単刀直入に出てみた。 「ん?負担が大きい?……計画をつくるのは…えーと、全校集会は教務だし…児童集会は担当
何かの意図があるのか、教頭は校長に意見を求めた。 「校長先生、何かありますか?」 校長に締めくくりを求めたというより、俺のことを断罪するための非難声明を期待したように思えた。 「…じぁあ朝の活動の件、原案通りということになりますね。まあ、前任の校長先生からも引き継いでいる計画なのでこのままですよね。読書はとてもいいことだわ…確か法律にも明文化されているし、県教委も積極的に奨めていますから…朝の活動以外にも時間をつくって、子どもたちに本をどんどんと読ませてください」 校
だが、このままただでは済まないだろう。何しろ俺は決まっていたことを蒸し返して会議を混乱に陥れている。職員会議を冒涜しているのだ。民主主義の精神を踏みにじっている。戦前であれば朝権紊乱、治安維持法違反のかどで拘束されても仕方がない。 朝の運動を取り入れようなどと、勢い余って余計な提案までしてしまった。まあ、反撃されれば闘う気はあったが、おそらく俺の味方は皆無だろうから討論に勝ったとしても結果的に負けるのは火を見るより明らかである。 もう一度教頭の顔を見たが、また困ったような
寝込みを襲った大地震に遭ったが如くに職員全員が目をパチクリさせたのを俺は見た。 何を言い出すのか?今後の平和な学校生活、教育活動を保証してくれるのか否か、大きな死活問題だと殆どの職員が認識しただろう。 「すでに決まっている教育課程の計画について、異を唱えるのには何か訳でもあるのかしら。種田先生の意見を聞きたいです…読書の代わりになるような、何か案があるのですか」 右手の甲で顎を支えながら自信ありげに言ってきた。 嫌な雰囲気が漂った。 続け