「ハワイ(税関)の、遠い思い出」
東京モノレールに乗るところから、飛行機への気持ちはつながっていた。
成田空港は完成していたはずだったけれど、その時も、羽田空港からハワイへ向かう路線もあった。
1980年代後半。個人的には初めての海外だった。
ゴルフ記者1年目
大学を卒業して、あるスポーツ新聞社に勤めて、ゴルフ担当の記者になった。3月初旬から働き始めていたが、同期では一番遅いほうだった。他の人たちは、まだ大学生のはずの12月頃から働き、4月からのスポーツシーズンに戦力になるように、という狙いだったと聞いた。
3月下旬からゴルフのトーナメント(試合)の取材に先輩記者に連れて行ってもらい、基本を教えてくれた。その後、4月上旬からは、ひとりで現地に行って写真部のカメラマンの方と一緒に取材をして、原稿を書き始めた。
新入社員研修みたいなものが、とてもいやだったので、すぐに現場で仕事ができるシステムは、個人的にはありがたかった。
ゴルフには詳しくなかったが、現場で見るプロの技術の凄さは、そんな人間にも分かったし、さらには、プレーヤーの個性は強く、言語も独特で、新鮮だった。水曜日もしくは木曜日に日本各地の大会が行われる場所に行き、3泊または4泊し、取材して書いて、ゴルフ場に設置されたプレスルームから原稿をファクシミリで送る、という日々が重なって行った。その日、何を書くかは、自分で考えて、午前10時に会社へ電話をして、デスクと打ち合わせをした。短い時間で話は進み、じゃあ、本文70行と、雑感2本で、よろしく、みたいなことを言われて、終了だった。雑感は、本文以外の短い記事のことだった。
月に2回か3回はトーナメント取材だったから、会社に行く日数は少なかった。何を書くのか毎日悩んでいたし、取材をするにも慣れていないことばかりだったけれど、スポーツの現場にいるのは、基本的には楽しかった。日本の各地の現地で、お世話になったのは同業他社の記者の方々だった。ライバルのはずだったけれど、協力をしあわないと、すべての取材をカバーできないので、コミュニケーションをとるようになったし、まだ新人の私には、みんな優しかったので、今でも感謝する気持ちがある。
初めての海外出張
そして、その年の秋。
初めての海外取材に行くことになった。
行先はハワイ。約1週間。
来年からアメリカ大陸などでの取材があるから、その予備練習もかねて、ということだった。
その前の国内取材から戻ってきたのが、日曜日で、それから、たしか、ほぼ休みもなく、国内の持ち物と、ほぼ一緒のまま、ばたばたと荷物を持って、モノレールに乗って、羽田空港に向かった。
一緒の飛行機でハワイに行くのは、半年以上、お世話になってきた同業他社の先輩の記者の方々だった。たしか11月だったのだけど、他の乗客は新婚カップルと思われる男女の二人組ばかりだった。プレスのために、いい席を用意してもらったようで、快適な空の旅だった。アルコールもいくら飲んでもいいようなので、かといって、これから仕事だし、と思って、ほどほどに飲んだ。食事は、肉か魚か迷っていたら、社会人になってから、すでに10キロ近く太ってしまっていたこともあったせいか、肉の方がボリュームがありますよ、と勧められた。
税関のための準備
ハワイに着いた。
今振り返ると、どの空港かは覚えていない。
初めての海外だった。
少しぼんやりしたまま、飛行機を降りて、荷物を持って、税関に行く。
そこでの振る舞い方は、国内で、会社の先輩記者に教えてもらっていた。入社2年目から4年目くらいの方々でも、すでに海外取材の経験が数多く、英語もしゃべれて、取材力もすごいと思っていた。ただ、同じ社内でも、どの人が情報ソースなのも、お互い知らなかった。それでも、いろいろなことを教えてもらっていたし、今回も、初めての海外なので、税関で何を言えばいいのかを伝えてくれた。
何しにきたんですか?は聞かれるから(もちろん英語で)、その時は、観光(サイトシーイング)ではないから、取材にきた(カバリング……)と答えればいい。アメリカの方が、プレスは尊敬されているはずだから、それでスムーズに税関は通れると思う。
不安だったけれど、教えてもらったので、安心感はあった。
それでも、税関に向かうまで、その答えの英語の文章を、心の中で繰り返していた。
ハワイの税関
目の前にいたのは、中年の女性だった。
一通りの会話は、スムーズにすすんで、あとはもうハンコみたいなものを押してもらって、ハワイに入国できるはずだった。
カード。
そんな言葉を言われる想定はしていなかった。
よく聞いたら「ビジネスカード」を見せろ、と言っているようだった。
カバンの中をごそごそしたが、名刺を忘れていた。
出張が続いたせいで、いつも持っているはずの名刺入れも、名刺の箱も、なかった。
海外だから、箱で持っていくべきと、先輩記者に言われていたはずだったけど、うっかりしていた。
なかなか終わらない会話
申し訳ない。名刺は、持ってません。忘れてしまった。
といったことを、さらにたどたどしい英語で伝えたら、
「あなたの仕事はなんですか?」
みたいなことを聞かれたので、さっき、取材にきたって、言ったのにと思いながら、
ジャーナリスト。
と伝えたら、首を傾げて、どうやら、カメラなのか?みたいなことを言っていたような気がする。
ライター。アイム・ア・ライター。
と、さらに怪しい英語で伝えたら、
「とにかく何か、あなたの仕事を証明するものはないか?」
と、さらに言っているようだった。
またカバンを、ごそごそしたら、社員証があった。この方が、名刺よりもオフィシャルだし、と思った。
その中年女性に渡したら、その社員証を持ち、顔をしかめた。
「この文字は読めないから、ちょっと待って」。
みたいなことを言って、さらに奥から東洋人の血筋という外見を持った男性がやってきて、その社員証を見て、何かを、その女性に話している。声も小さいし、何言っているかわからないし、このあたりでうんざりよりも、ちょっと恐さも出てくる。
これでOKのはず、と思っていたのに、その女性の表情は晴れない。
次の英語は聞き取れなかった。
その男性が翻訳してくれた。
「このカードで、この会社の社員ということはわかるけど、記者であることはわからない」。
と言われ、あと、どうすればいいのだろう、と思っていたら、
急に、まあ、いいでしょ、みたいな仕草で、ハンコが押されて、やっと税関を通過できた。
アイム・ア・ライター
外では、ここまで10分くらいかかったのに、他の同業他社の記者の方々も待っていてくれた。ありがたかった。
どうしたの?と詳しく聞いてくれて、それを面白がってくれたし、他の方々は、名刺のことなんて、誰も言われてなかったことを知った。その中の一人に、なんかさ、名刺を集めているおばさんがいるらしいんだよね、と言われた。もし、そうなら、最初の海外で、そんな人にあたるなんて、ついてないけど、でも、こんな時に名刺を忘れるのは、どうかしているとも、改めて思った。
さすがに新聞記者だけあって、その日のうちに、その私の話は、少し面白くなっていた。
税関で名刺を見せろと言われて、持ってなかったんだって。
それで、仕事を聞かれて「アイム・ア・ライター」って言って、持っていた2つのライターを、両眼の前に持って行って、火をつけたらしい。
その頃の、いわゆるスポ根のアニメや漫画は、さあ、これから!という時に、瞳の中に炎が燃え上がるのがお約束だったから、そこから引用していたのだと思う。
それから、少ない経験だけど、海外に行って、税関で名刺を見せろ、といわれた経験は一度もないし、そんな話を聞いたこともないし、名刺を集めている税関の人、ということも知らないままで、年月は過ぎた。
もしかしたら、自分が知らないだけで、こういう経験をしている人は、けっこういるのだろうか、と思いながら、あれから30年くらいたった。細部はあいまいになっているけれど、変な経験として、まだ覚えている。
あれは、なんだったのだろう?
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