「バレンタインデー」のことを、「バレンタインの主役」が、あまり語らない理由を考える。
まだ、義理チョコという言葉が一般的でない時の方が、「バレンタインデー」は、ドキドキしていた。
例えば、中学生男子であれば、客観的に見れば、絶対、女子から渡されないはずなのに、自分のこととなると、淡い希望を持ってしまうのが、恥ずかしい。それでも、なぜか、バレンタインデーが終わり、何日か経ってから、机の中に、何かが入っているのに気づいたことがあった。
包装紙で包まれていたのは、チョコレートで、しかも、小さい文字で「とくめい希望」と書いてあった。
その相手が誰なのか。それもどんな思いなのか。イタズラかもしれないけれど、結局、そのことの本当は、ずっと分からないまま、随分と時間がたった。
バレンタインの主役
いつもは、何も入らないほど薄くしたペタンコの学生カバンを持っている先輩が、バレンタインデーには、そのカバンと共に、かなり大きめの丈夫そうな紙袋をたたんで持ってきていた。
そして、予想通り、というか、予想以上に、その紙袋をパンパンにして帰っていく。その中味はチョコレートだった。
「バレンタインの主役」の力は、年齢が若いほど、強かった。それだけ、ある特定の人に好意が集中しがちで、大人になればなるほど、魅力が多様であることに気がついたり、自分との相性の大事さが分かってくるのかもしれないが、若いほど、やはり見た目重視になるのは、どんな人でも共通するような気がする。
義理チョコが一般的でない時ほど、「バレンタインの主役」の力を見せつけられるような気がしていたが、それだけ、世の中は不平等であることも理解させられた、と思う。
それから時代が経つと、校内でチョコを渡すのは禁止、といった学校もあるようだし、義理チョコ、だけではなく、自分チョコという言葉まで出てきたから、そんなふうに、誰かに集中的にチョコレートが集まるような光景は、見られなくなっているのかもしれないけれど、ある時代には、そんなことが確かにあった。
主役の力がわかる時
そんな中学の時、友達で、明らかにモテる人間がいた。
見た目はもちろんだけど、勉強もできるし、運動部に入っていないのに、運動会では、リレーのアンカーになって、いわゆる「ごぼう抜き」をして、女子のキャー、という声援を受けていた。
普段は、普通にいい性格だったから、考えたら、それで余計にモテるはずだった。
確か、春ごろに、その友人の家に遊びに行った。何かの拍子に、押し入れの中に箱があって、何かが積まれていた。
それは、彼が、バレンタインデーにもらったチョコレートだった。もらったものは、捨てることもできず、誰かにあげることもせず、どうやら、もらったからには、自分で食べるようにしていたらしい。
あれから、何ヶ月かたっているのに、まだチョコレートは、ヤマのようにあった。
その話をする時の彼は、自慢するでもなく、淡々としていた。
さらにその隣に、中学生はあまり使わないような、かなり厚めのファイルボックスのようなものがあった。
それが何かを聞いたら、手紙だというので、こちらから頼んで、箱を開けてもらって、中味が少し見えたけれど、当然だけど文面は見せてくれなかった。そこには、束のように便せんが重なっていた。どれだけの枚数があるのか、分からないくらいだった。
いわゆるラブレターのようだった。
そのことについて語るときも、少し困ったような顔をしていたと思う。
人の好意がそれだけ寄せられる気持ちは、想像はできなかった。その頃は、うらやましいだけで、こんなふうに誰から見せてくれと頼まれるようなことも含めて、いいことばかりではないかもしれない、という気配には、気づかなかった。
「バレンタインデーの主役」が語らない理由
バレンタインデーになると、いろいろなエピソードが語られるけれど、集中的に好意を集める「バレンタインの主役」が話すことは少ない印象がある。
自分自身は、「バレンタインの脇役」だったから、より、こんなふうに語れるのかもしれないが、もしも、好意を集中的に集める人間だったら、バレンタインデーは、どんな日なのかを想像すると、違う意味でドキドキするのかもしれない。
どんなふうに渡されるのか。どんなふうに呼び出されるのか。そして、何人くらいから渡されるのか。どんな気持ちなのか。いいことと、困ったことはなんなのか。
このことをどれだけ淡々と語ったとしても、多くの場合は、いろんな人から嫉妬という攻撃を受けそうだし、そういうことを明らかにして語るのは、好意を伝えてくれた相手に対して失礼だというような気持ちにもなるのかもしれない。
そう考えると、「バレンタインデー」の主役だった人が、その日のことを語らないのもわかるような気もするのだけど、それでも、どんな1日だったのかを、できたら具体的に、教えてもらいたい気持ちもある。
ここまでの話自体が、かなり偏った見方だとは思うのだけど、それでも、「バレンタインの主役の一日」は、「バレンタインの脇役」だった人間にとっては、ほぼファンタジーの世界のような気もしている。
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