個人的なスポーツの記憶①「18歳・中村俊輔のパスの軌跡」。
ささやかで、そんなに人目をひくような出来事でなかったかもしれませんが、スタンドから、トレーニング場で、もしくはメディア上で、個人的に印象に残ったスポーツの記憶に関して、少しずつ伝えていきたいと思います。多くは、かなり古い話になってしまうと思うのですが、もし、よろしかったら、読んでいただければ幸いです。
1997年1月8日。
国立霧ヶ丘陸上競技場。いわゆる「国立」で、当時の高校サッカーの聖地だった。
第75回高校サッカー選手権大会の決勝に進んだのは、市立船橋(千葉県代表)と、桐光学園(神奈川県代表)。
今になってみると、桐光学園の相手が、他の高校だったような記憶さえあるから、あいまいになっている部分も多いのだけど、その時に優勝したのは市立船橋、通称「いちふな」で、サッカーの名門高校で、結果的にも2対1だったから、接戦といってもいい好ゲームだったのだろう、と思う。
そうした試合展開については、その頃にスタンドから見た、他のいろいろな試合の印象と、恥ずかしながら、どこか混じってしまっていて、はっきりとは覚えていない。
その試合で、もっとも印象に残ったのは、中村俊輔のパスだった。
桐光学園がここまで勝ち進んできたのは、背番号10番の中村の貢献度が高く、試合前から注目度は高く、だから、見る側としても期待値も高く、そうすると、勝手な話なのだけど、どこか厳しい基準で見ていたと思う。
試合のある時点で、中村がサイドラインに近い地点で、ボールにさわった。
次の瞬間、中村俊輔は、パスを出した。
パスの軌跡というのは、スタンドからの観客の視点に過ぎないのだけど、プレーヤーによって受ける印象が違う。力強い太い線を描いているように見えたり、正確なパスほど意志を持ったようにぶれないで、まっすぐ進んでいく。
中村のパスは、サイドラインから、サイドラインへ、ピッチの横幅を、きれいに横切るように、そして、わずかにカーブを描いていた。その軌跡は繊細で、正確で、どこか静かで、美しく見えた。
そのカーブは、受け取る側がトラップをしやすいように、という気遣いのように見えたし、その距離は50メートルくらいはあるはずだったのだけど、力一杯蹴った、というわけでもなく、すべるようにスムーズにボールが自然に進んでいくように見えた。スタンドから見ると、かなり細身に感じ、パワーに優れているように見えなかった中村は、おそらく技術で、そのパスを通していったように思えた。
大げさに思われるかもしれないが、目がさめるような鮮やかな印象だった。
サッカープレーヤーにとって大事なこと
安直に比較したりするのは失礼だし、私の見る目がそんなにあるわけでもないのだけど、そのピッチに立っているプレーヤーの中で、圧倒的な存在だと、そのパスで分らせてくれたように思ったし、18歳で、このパスが出せることに驚きもあった。
ただ、サッカーのことを少しでも知っていくと、サッカーのプレーヤーにとって、もっとも大事なことは、まずうまいこと。つまりは、ボールを扱う技術がきちんとしていないと話にならなくて、その上で、強さや速さや高さがあれば、という順番であることを、その頃は、サッカーを取材することが仕事でもあったので、その経験の中で自然と学んでいった。
だから、中村は、18歳で、パワーやスピードはこれからさらにアップさせる必要はあったとしても、この年齢で、すでに技術はあるレベル以上にないと、たとえばプロや、国際的なレベルでプレーできない、といったことを、実は教えてくれてもいた。さらには、このレベルのパスを出せる中村が、横浜マリノスのジュニアユースで活躍しながらも、ユースのセレクションで落とされていた、ということも知り、その理由が中学生だった中村の身長が低かったから、らしい、ということも知った。
日本のサッカー界が、優れたサッカープレーヤーの条件について、まだ共有できていなかったのかもしれない。まず技術が高いプレーヤーが大事にされるべき、といったようになるには、まだこれから、ということだったのかもしれないが、中村のような技術の高い選手が活躍することで、もしかしたら、その後は、サッカーがうまいのに身長が足りなくてセレクションに落とされる、ということは、少なくともユース世代では減少した可能性もある。
そして、中村のパスの軌跡は、アクシデントがなければ、確実に高いレベルで活躍できる未来を示してくれてもいた。
その後の中村の活躍は、もっと詳しい人はたくさんいるはずだが、海外へも渡り、日本代表としてワールドカップにも出場し、2020年現在、40歳を超えても現役を続けている。それを支えているのは、高い技術なのは間違いない。
(参考資料)
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