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記憶力の弱い人間が有利になる局面を、書きながら、考えてみた

 意識して外出の機会を減らして、家にいる時間が増えているので、この機会に、いろいろと考えてみるのも、少しは有意義かもしれない。

 記憶力には、昔から自信がなかった。

 小学校低学年の時、教室でプリントを渡されて、ランドセルに入れると、そのまま忘れてしまった。奥のほうに、アコーディオンみたいに、細く折り畳まれた紙が、気がついたら、何枚もあった。

 十二支は、ネズミから、ヘビまでは言えるが、そのあとが続かない。そのあとも、覚えようとして、家族に教えてもらったりするが、しばらくたつと、またヘビまでで、止まってしまう。

 子供の頃、百人一首をすることが多かった時期があったが、両親と三つ下の弟は、100枚覚えていたのだけど、私はたぶん10枚くらいしか覚えられなかった。だから、遺伝は影響していないのかもしれない。
その流れでいえば、裏返されたトランプをひっくりかえして、同じ数字を合わせる「神経衰弱」(今、思うと、すごいネーミングだけど、呼び方がいろいろあるらしい)が、弱かった。そこにあった数字を、さっき見たはずだったけど、自分の番が回ってくるまでに、忘れてしまった。

 高校の頃、世界史で習った中国の王朝は、殷から清まで言えるようになったが、それは、まだやる気が少しあった高校1年生の頃であって、あとは、いろいろなことを、どんどん忘れていった、というよりも、最初から覚えられないことばかりになっていった。

 受験の間際、周囲の受験生が語っている歴史の単語が、まったく分からず、焦って、受験科目を数学にかえた。それで点数が増えたりもしなかったと思うし、たいした影響はなかったはずだが、覚える才能のあるなしというのは、努力でなんともならないことだと、学生時代はずっと感じていた。

 寝ている間に英単語を覚えられる枕が、雑誌の後ろの方の広告に載っていた。これで覚えられたら、本当にありがたいと、疑いつつも、ちょっと真剣に購入を考えたこともある。少なくとも、すぐに筋肉隆々とか、運がついて億万長者、といったグッズも似たようなベージに載っていたけれど、それらを欲しいとは思わなかった。

 いつだったかはっきりと覚えていないが、学校で、どんな科目でも熱心に勉強している、確か同級生に、“そんなに熱心なのは、すごいね、勉強が好きなんだ?”と、バカみたいに聞いたら、ちょっと厳し目の口調で、『そういうことではない。好き嫌いでやっているのではなく、やるべきことだから、やっているんだ』といった答えがかえってきた。あまりに違っていて、驚きまであった。ただ、今になってみれば、これは、自分の捏造された記憶ではないかと、自分を疑ってもいる。


 それでも、記憶力の弱さが有利に働く局面があると、最近、分かってきた。

 中年といわれる年齢になると、同世代と話をしていて、共通の話題の一つに、最近、物覚えが悪くなってきた、という一種の嘆きがある。

 ただ、そんな話をしていて、最近、違和感を覚えることも多くなった。
 記憶力は、もちろん衰えているのだけど、その衰えをあまり感じないし、そんなに悲観的に感じたことがないから、あまり共感できないことに気がついた。


 若い時から、周囲に比べて、明らかに記憶力が劣っているのは、分かっていた。
 日本の学生である限り、受験勉強というジャンルに限って言えば、記憶力があることは、圧倒的に有利だったと思う。だから、余計に、記憶力がないことに、引け目みたいなものも感じてきたが、社会人になってくると、記憶力に依存する部分が、学生時代より低下する部分もあるから、歳を取るほど、気になりにくくなる面もある。

さらに、今は、検索ができる。
私はスマホも持っていないから、その場での検索はできないものの、スマホを所持している人は、記憶のデータベースを、頭脳の外付けのハードディスクとして、持ち歩いているようなものだと思う。

 だから、これから先は、記憶力への依存度が減るのではないか、と思う。そういう時代になれば、自分の記憶力の弱さは、それほど気にならなくなるのではないか、という期待もしている。ただ、その頃は、さすがにスマホを持っていないと、ダメなのかもしれない。

 さらにいえば、これが有利さを感じる、自分にとっての本命ともいえるが、若い時から記憶力に自信がないと、老いて、記憶力が低下したとしても、変化が少ないから、そんなにショックがないのではないだろうか。
 それに、元々の記憶力が弱い人の方が、老いて低下する記憶力の度合いが、それほど大きくない気がする。だから、ショックを受ける程度は、記憶力のよかった人に比べて、より少ないのだと思う。

 そこには、若い頃に記憶力の良い人への妬ましさみたいなものも、ありそうだ。
 そういう記憶力に強い人々が、老いたことによって、自分に近づいてきた気がして、なんとなく気持ちいい部分もあるのだろう。そこには、私自身の、醜い欲望が密かに満たされているという、本人は目を背けたくなるような理由もあるような気もする。


 ここまでは、あくまでも個人的な考えです。
 ただ、それにしても、ネガティブ過ぎるかもしれないので、違う角度から、記憶力が弱いことの有利さも書いている本を紹介します。

 この本の著者も、記憶力が弱い、といった言い方をしていて、だけど、それは弱点でなく、逆に長所である、と言わんばかりの表現をしている部分もある。かなり自信を持った文章でもある。ただ、これはほぼすべてが口述筆記らしいので、話し方に自信があるのだと思うが、普通は、ここまで自信を持って言い切れないとは思う。
 その理由は、おそらく、この著者は、自分の記憶力以外の知力や工夫に自信を持っているはずだからだ。さらには、自分ができないことはできないと、朗らかに割り切っているせいもあると思う。  
 と書いて、ということは、記憶力が弱ければ、無理をせず、他の思考力などで、勝負できるようにすればいいのに、といったことが大事なのだろうと、改めて気づける本でもあった。好き嫌いは分かれるかもしれないが、自分の視点を変えたいと思っている真面目な人ほど、読んだほうがいい本だと思う。

自分が楽しいと思えるように物事を変えてしまうのも含めて、長期的に楽しいと感じることをなるべく増やして、不快に感じることをなるべく減らすのがいいと思っています。

 こうした文章に触れると、ああ、本当にそうだ、という気持ちにもなる。

 でも、すぐに、このシンプルさを徹底していくことは、かなり難しいのではないか、と気づく。同時に、こうしてゴチャゴチャと思考しているから、ダメなのかも、と考えは回っていく……。




(他にも、こんなnoteを書いています。よろしかったら、読んでいただければ幸いです。クリックするとリンクしています↓)。


「あいまいでも、記憶や思い出や感想を、公開する意味を、書きながら考える」

「芸人・プチ鹿島は、言語学者・チョムスキーに似ているかもしれない」

「マラドーナの、異質な行動の意味を、考える。 1994年と、2010年のW杯。」

「平田オリザ氏の話をラジオで聞いて、図書館に行って、気持ちにフタをしていたことに、気がつきました」。

#記憶力    #記憶力の衰え   #自己紹介   #視点を変える



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おちまこと
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