「脳内記憶倉庫」の機能低下が、「興味」を奪うことを考える。
唐突ですみませんが、「脳内記憶倉庫」というのは、私が勝手に考えた言葉です。それでも、「記憶」や「興味」などを考えていくには、今回は、この言葉とイメージを使った方が、より明確になると思ったので、使っていきたい、と思います。
何かを記憶する時に、脳の中に倉庫が並んでいて、それも、ジャンルごとに倉庫があって、その中に記憶が入って、必要な時に出し入れできる、というイメージです。(科学的な裏付けはなく、自分の経験から、考えやすくなると思って、勝手に書いていることですので、いろいろと間違っていたら、すみません)
年齢が高くなると記憶力が弱くなるという話は、よく聞くことですが、それが、若い頃に記憶力が悪い自覚がある私のような人間は、そんなに感じないのと、もしも記憶力が落ちたとしても、そんなにショックではないから、ある意味、有利ではないか、という話は、以前書いたことがありました。
その時にぼんやりと感じていたことを、そのあとも考え、「脳内記憶倉庫」があるとイメージしたほうが、加齢によるいろいろな衰えに対しても、少し説明がしやすいような気がしました。
その中で、特に思ったのは、記憶力が衰えるのは仕方がないとしても、どうして、それと並行するように、「新しいことに興味が持てなくなる」という声を、歳を重ねるほど、多く聞くようになるのか、ということでした。それは、よく考えると、記憶力が衰えることと、新しいものに興味が持てなくなるのはイコールではないですし、このことに関しては、個人差が大きい印象もあったので、改めて考えたいと思いました。
(この後、長くなってしまいました。よろしかったら、比較的、時間がある時に、読んでもらえたら、幸いです)。
記憶力に自信がある人の、記憶の方法への疑問
以前から疑問に思っているのが、記憶力に自信がある、という人たちの記憶の方法です。
たとえば、単語や言葉を覚える時に、ストーリーを作って、覚えれば忘れない、といったようなことや、自分の体の部位と、その記憶を結びつける方法があって、それを実践すると忘れません、といった方法です。記憶すべきことと、いろいろなものを結びつけるのは、記憶を保持し続けるのに有効なのだと思います。英単語を覚えるのなら、文章でおぼえたほうがいい、というような方法です。
記憶の容量は無限みたいなことを、どこかで聞いたか読んだような、それこそぼんやりとした記憶もあるのですが、それでも、記憶力を考える時に、個人的に、考えやすいイメージは、「脳内」に並ぶ「記憶の倉庫群」です。
記憶力がいい人の「脳内」には、「倉庫群」がたくさんあって、それも、一つ一つが大きくて性能がいい感じがします。その上、倉庫で働くフォークリフトを操作する人(たとえです)も多くて、有能だから、記憶の「倉庫」に、あらゆるものを収納できるし、それを取り出す作業も早いので、思い出す速度も早いはずです。
記憶力に優れた人は、覚える時に、いろいろなもの(ストーリーやイメージなど)をくっつけて、どれだけ大きくしても、記憶倉庫が大きいので、収納も楽勝で、運搬スタッフも優秀だから、苦痛ではないと思います。
ただ、個人的には、こうした記憶術的な方法を聞くたびに、最初から、やる気が起きませんでした。
これは、自分の怠慢だったりするので、そんなに強く断言はできないのですが、そうした方法をとる気がしなかったのは、「脳内記憶倉庫」の性能の差のせいではないか、と思っています。
記憶力の弱い私のような人間の「脳内記憶倉庫」は、小さく、数も少なく、そこで働く人々(たとえです)の能力とやる気もそれほど高くない感じがします。だから、何かを記憶する時に、そこにいろいろなイメージをくっつけて、その容量が大きくなると、運び込む自体に苦労しますし、入れたとしても、倉庫が狭いから、すぐにいっぱいになってしまって、それ以上入らなくなります。もともとの倉庫が狭いと、いろいろとくっつけてしまったら、入るものがただでさえ少ないのに、もっと入らなくなるので、そういう方法を見た瞬間に、できないと思っていたような気もします。
書いていて、微妙に悲しくなりますが、たぶん、そんなイメージです。
「脳内記憶倉庫」の変化と、興味が持てなくなるという現象
記憶力の衰えとともに、老化現象の代表ともいえるのが、「新しいことに興味が持てなくなる」というのがあるのですが、これも、「脳内記憶倉庫」のイメージで、それがどうして起こるのかを考えてみます。
全部がただの妄想でもあるのですが、一応の前提があります。
まず、「脳内記憶倉庫」ですが、記憶の脳内倉庫は、数多くあります。それも、おそらくは、ジャンルによって分かれていると思います。たとえば、「勉強記憶倉庫群」や、「音楽記憶倉庫群」「スポーツ記憶倉庫群」などです。そして、それぞれ、さらに細かく分かれていきそうです。「サッカーの戦術の記憶倉庫」とか「JPOPの2000年代記憶倉庫」とか。
その「脳内記憶倉庫」は、脳細胞から考えると記憶量は無限みたいなことを、どこかで読んだような記憶があるのですが、私の勝手な印象では、やはり限界があるような気がします。そして、歳を重ねて、記憶力が落ちるのも、こうした「記憶倉庫」が古くなって、機能が落ちたり、すきまがあいて、そこから記憶が漏れ出したり、といった変化が起こってきます。そして、いつのまにか、その「記憶倉庫」が、それ以上、入らなくなってきて、その「入らなくなった記憶倉庫」がだんだん増えていくのが、老化、というイメージです。
「記憶倉庫」が機能低下のせいで、倉庫は、いっぱいになり、もうこれ以上のことは覚えられない。
もしかすると、それが、「新しいことに興味が持てない」ということに直結するのではないか、と思うようになりました。
「脳内記憶倉庫」がいっぱいになる2つの過程
さらに、その「脳内記憶倉庫」が、いっぱいになる理由が主に二つあると考えられますし、「新しいことに興味が持てない」にも、2通りあるように思います。
一つは、何しろ無理にでも覚えた記憶で、いっぱいになっている場合でしょう。
この代表的なもので頭に浮かぶのは、やはり受験勉強ではないでしょうか。
記憶力のいい人の記憶術でも、こうしたジャンルで発揮されることが多いように思います。何しろ、一生懸命覚えたものは、何かしらのイメージでとくっついているので、容量が大きくて、だから、倉庫もいっぱいになりがちです。若い時には問題がなくても、歳を重ねたら、その出し入れの能力も減ってしまいますし、倉庫そのものも古くなってきますから、もしかしたら劣化したり、倉庫もちょっと縮むかもしれません。つまり、もう新しい記憶を、倉庫が入れる能力が低下してきます。しかも、記憶することに関して負荷がかかっていたとしたら、それを繰り返すことと辛い気持ちが結びついてしまっていて、より消極的になってしまうかもしれません。
これが、「脳内記憶倉庫」の機能低下による、どこか疲労感と共に語られる「新しいことに興味が持てない」状態だと考えられます。
もう一つの「脳内記憶倉庫」がいっぱいになり、「新しいものに興味が持てない」状態のキーワードは、おそらく「興味」です。
こうしたことの例として、自分の同世代にけっこういるような印象で、決して悪意ではないのですが、「脳内記憶倉庫」について考えるきっかけの一つで、こんな人物像のイメージです。(特定の人物ではありません)。
ロックは1970年代が最高だった。
それ以降のロックや、音楽は認めないし、興味がない。
こうした人がいたとして、「ロック音楽」の「脳内記憶倉庫」は、いっぱいになっているはずですし、それで十分でしょうし、それで、何十年もいけるでしょう。死ぬまでずっと1970年代のロックだけを聞いていたとしても、それは、外から何かをいう必要はないほどの充実感のはずですし、どこかうらやましいくらい幸福感を知っているのだろうとも思います。
「興味」は、「記憶」に関しては、ある意味では最強の味方だと思います。
丸暗記のような苦行とは違って、何かのイメージと結び付けなくても、自然と「脳内記憶倉庫」に保管されているでしょうし、あまりにも「興味」と「記憶」は相性がいいために、「脳内記憶倉庫」と一体化し、もしかしたら、忘却が難しくなっているかもしれません。そのために、「興味」によって「記憶」に必要な容量が少なくてすむといっても、どんどん「記憶量」は増え続け、他のことが入るすきまがないという意味で、常に「脳内記憶倉庫」がいっぱい、ということのように思えます。
こういう人は、他のジャンルの「記憶倉庫」は空いている可能性はありますが、特に若い頃に「興味」と結びついた「記憶」は、おそらくは最強で鮮明で、「脳内倉庫」にあったとしても、その再生で無限に楽しめそうなので、こういう方がいたとして、もしも「新しいことに興味が持てなくなった」としても、それは、幸せかもしれないとも思います。
「脳内記憶倉庫」の機能が低下しても、新しいことに「興味」を持てる条件とは?
この「脳内記憶倉庫」のイメージを考えるようになったのは、個人的な経験で、申し訳ないのですが、中年を過ぎて、新しい勉強を始めた時の印象です。その時、初めて、学ぶということは、外側に武装するように身に着けるのではなく、自分の体質そのものを変えることだというのが、それこそ体で分かるような感じもしました。だから、かなりの辛さもあったのですが、すごく新鮮で、充実していました。
その時、思ったのは、自分の過去のことです。
特に、勉強に関しては、あんまり頑張った記憶がありません。大学時代に、そこの図書館に一度も行ったことがないくらいでしたし、受験勉強も、周囲のがんばりをみていると、とても、ああはできないと思い続けていました。
つまり、脳内の記憶倉庫群の中の「勉強記憶倉庫」は、新しく勉強を始めて気がついたのは、あまり中に「記憶」という荷物がなくて、かなり、ガラガラだったことです。確かに年をとって、元々の記憶能力も低かったので、脳内の記憶倉庫の力も落ちていました。ぼろぼろになっている感覚もありました。だけど、その倉庫は空きがたくさんあって、だから、新しいことが入っていく感覚がありました。もちろん、それまで、長く介護に専念していて無職で、ここで資格をとらないと、本当に社会の底に沈む恐怖心もあったとは思います。
そのおかげで、今も、本を読む習慣も続いています。新しいことへの「興味」も続いています。
若い頃には、読書習慣は、恥ずかしながら、ほとんどなかったのですが。
同じことは、音楽に関しても感じていました。
若い人に教えてもらった、その当時の新しい音楽に興味を持てて、よく聞くようになりました。
これは、たとえば10代から、20代に、おっかけをしたり、必ずアルバムを購入して、何十回も聞く、ということが、おそらくはほぼなかったために、脳内の「音楽記憶倉庫」が、がらがらだったことも大きく影響しているように思います。
自分のことを改めて、考えると、基本的には、古くて、ガラガラの「記憶倉庫」が脳内に並んでいるのですが、たまに中がいっぱいの倉庫があることに気がつきました。
たとえば、「特撮やアニメのテーマソング倉庫」は、たぶんほぼいっぱいで、でも、おかげで、今でも最初のアニメの「タイガーマスク」のエンディングテーマ(あたたかい人の情けも、で始まります)や、特撮の「レインボーマン」のオープニングもエンディングテーマ(しねしね団)も、音程は別にしても歌えます。あとは、「サッカープレーヤーの名前倉庫」は、ほぼいっぱいなので、昔の西ドイツ代表(本当に昔です)のベッケンバウアーやゲルトミュラーや、フランス代表のプラティニなどは、覚えていますが、今のプレーヤーの名前は、プレーにはすごいと思っても、名前が覚えにくいのも自覚しています。それは、年齢で記憶力が衰えているだけでなく「記憶倉庫」がいっぱいのせいもあると、自分では思っています。
もし、若い頃に、勉強をちゃんとしてなかった。何かに夢中になることもなかった。といった気持ちになっていて、それが後悔に近い気持ちになっている方がいるとすれば、そういう方こそ、まだ「脳内の記憶倉庫」は、かなり空きがある可能性が高いと思います。
だから、これから、「新しいことに興味が持てる」可能性は、もしかしたら、ご本人が思っている以上に高いかもしれません。
私自身も、学ぶことに、こんなに「興味」が持てるとは、再び学び始めるまで、思ってもいませんでした。
昔、頑張ったので、今さら新しいことに「興味」が持てない場合
何かの調査で見たことがありますが、日本の社会では、学生時代は「勉強」したとしても、働くようになってから、勉強する人はとても少ないという結果が出たそうです。
これは、とても狭い範囲ですが、なんとなく分かることだと思います。
特に若い頃に、受験勉強や資格試験などで、それこそ寝る間も惜しんで勉強してきた人、(そういうことができるだけで、特殊能力だとも思いますが)ほど、「もう勉強はいいや」という気持ちになるのも、少しですが理解できそうですし、会社などで働き始めたら、勉強する時間を持つのは大変だと思います。さらに、昭和から平成では、仕事は「現場主義」が強かったこともあり、学ぶことに興味を持てないまま、歳月が過ぎていく、ということは、すごくありそうな話です。
また、それだけ、若い時にがんばってしまうと、やっぱり、「脳内記憶倉庫」も、かなり消耗してしまっている可能性もあります。それでいて、年をとって、その倉庫が古くなったとしても、「記憶」してきたことは、いろいろなイメージとともに倉庫にあると、動かしがたいので、ずっとそこにあり続けている可能性もあって、だから忘却も困難かもしれません。倉庫はいっぱいなままで、そこに、必要だからといって、「興味を持たなくちゃ」「覚えなくちゃ」で、新しいものを入れることはかなり難しいので、「新しいことに興味を持てない」のも、それはしかたがないのでは、とも思います。
繰り返しになっていると思いますが、『「脳内記憶倉庫」がいっぱいになる2つの過程』で述べた、最初の方々です。
それでも、新しい「興味」に出会える可能性があるとすれば。
何も覚えられない、もう新しいことにも興味を持てない。
今まで、ものすごく「記憶」に力を入れてきたのであれば、もう、これ以上、新しいことを覚えないことを選択しても、誰も責めないと思います。
だから、これからどうしていくか、と考える時に、自分の記憶というか、過去だけで生きていく方法もあります。それは、徹底すれば、決して不幸ではないようにも思います。
だけど、もし、どこかで、せっかく今に生きているのだから、今のことも、新しいことも覚えたいし、興味を持ちたい、と思うのであれば、おそらく方法はあります。
一つは、現代の新しい記憶方法によって、古くなったといっても、元々の性能が高いはずの「脳内記憶倉庫」をなるべく有効に、修繕しながら使うというやり方です。つまりは、今の年齢に合わせた記憶法みたいなものを使いながら、「覚えないといけない」。「新しいことを知らないと生き残れない」。変化が大きい現代では、誰もがそう考えがちだとも思いますし、自然なことだとも考えられますから、そのために、再び、「脳内記憶倉庫」の力を、以前の方法のバージョンアップによって、再起動させる、というイメージです。ただ、それは、また「脳内記憶倉庫」に負担をかける方法かもしれません。
もう一つは、「違う種類の記憶方法」を試してみることです。
どなたでも経験があると思うのですが、「興味」を持てたことは、気がついたら、覚えていることも多いと思います。「脳内記憶倉庫」のことを思うと、「興味」という要素は、倉庫へ入れるのも出すのも、保管するのも、おそらくはとても容量が小さくてすむのに、最高に扱いやすいものだとも思います。だから、興味とともにある記憶は、他のことよりも、容量が小さいので、とてもたくさん入りそうです。
こんなことは、すでに知っていることで、それこそ、「興味」が持てない、ということであれば、読み飛ばしてもらって大丈夫なのですが、あらためて、「記憶」というのは、「興味」とともにある時が、最強だと思います。それまで、義務として、覚えるべきものとして、これから使う武器として、いろいろなことを記憶してきた人ほど、もしかしたら、興味とともに、もっとシンプルにいえば、好きだから自然と覚えている、という状態と、無縁な可能性はないでしょうか。
それは、過去に勉強を頑張ってきた方への、偏見かもしれませんが、「興味があるから、自然に記憶できる」という方法をあまり選択したことがない場合は、そのことを、もう一度、試してみるといいのでは、と思います。
「興味」は、人が連れてくる
では、その「興味」を、どう持ったらいいのでしょうか。
もう、答えを、ご存知かもしれませんが、興味を連れてきてくれる最大の要素は「人」だと思います。誰かが興味を連れてきてくれます。
誰かに、興味を持った時。その人が話していることに興味が持てた時。その時に、「新しいこと」を覚える準備が実はできていて、そういう時は、記憶はスムーズだと思いますし、その時の記憶はもしかしたら楽しさと、結びついているかもしれません。
それは、これまでの丸暗記などの時の、「脳内記憶倉庫」の使い方とは違って、一見、負荷のかからない方法ですが、それは、今まであまり使ってこなかった、もしくは、そんなに頻繁に使ってこなかったけれど、有効な方法だと、改めて気がつくのかもしれません。
その時は、「脳内記憶倉庫」の古さも、残り容量の少なさも、それほど関係がなくなってくる可能性すらあると思います。
今は、コロナ禍の、こんな状況なので、難しいかもしれませんが、誰か、「興味」を連れてきてくれるような人と会うことができれば、古くなった「脳内記憶倉庫」でも、今まであまり使っていなかった機能によって、再生するかもしれません。その時は、昔、記憶力を使い続けて、ある意味では鍛え続けたことが、再び、プラスに働くかもしれません。
直接、会うのが難しければ、知り合いでなくても、メディアなどで、興味を持てる人でも、大丈夫かもしれません。そうした人が、話していることに、「興味」をもてれば、そこから、新しい「記憶」へ結びつくこともありえます。
私も、ラジオで誰かがすすめているから、読む本も、結構多いと思います。
そして、私自身の「記憶」を改めて振り返れば、中年になって、学校へ行き、辛さもあったのですが、それ以来、学ぶことができるようになったのも、一緒に学んだ「人」たちがいたことが、とても大きかったと思います。そして、学問の世界に生きている「人」たちが、気持ちをこめて、伝えてくれたから、学べたのだと思います。きれいごとに聞こえるかもしれませんが、それは、豊かな時間でもあったのも間違いないと思います。
それから、これは、ちょっと蛇足ですが、だじゃれを言い出すのは、ある程度、年をとった人、特に男性だという印象もありますが、あれも、実は、記憶にも関係しているかもしれないと、ふと思いました。
ある言葉と、ある言葉を組み合わせる。それを口に出す。その作業で、2つの「脳内記憶倉庫」に保管されていたものが、一つになる。そのことで、「脳内記憶倉庫」の容量が圧縮できて、新しく保管できるスペースが生まれる。
だから、だじゃれを言うことが、我慢できなくなる。
何の根拠もありませんが、そんなことも思いました。
今回の話は、やたらと長くなり、しかも、申し訳ないのですが、科学的な根拠はありません。ただ、今の自分の能力の限界を自覚しつつ、考えつつ、なんとか書きました。今回も、書き始めた当初は、予想できなかったところへ着地したと思います。最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
(他にも、いろいろと書いています↓。クリックして読んでもらえたら、うれしいです)。
「どうして固有名詞が思い出せなくなるのか」、を少しだけ考える
芸人・プチ鹿島は、言語学者・チョムスキーに似ているかもしれない