言葉を考える⑧「違和感を、感じる」を、考える。
違和感を、感じる。
こう書くと、それは、間違っているとは言わないが、美しくないのではないか、といった批判がされているのは、知っている。
それは、違和感を感じるが、「腹痛が痛い」に近い二重表現ではないか、という指摘らしいが、その場合に正しいとされる「違和感を覚える」も、この場合の意味「覚える」も「感じる」に近いらしいので、どちらにしても「二重表現」になって、つまりは、正解はない、ということらしい。
そうなると、何を使ってもいい、といった「正解のない答え」になってしまうのだけど、語源的には、根拠はないにしても、違和感に関しては、日本語を、普段使っている人間の一人として、少し考えていこうと、思います。
「違和感を覚える」を考える
違和感を覚える。
これが今のところは、オーソドックスな使い方で、日本語について詳しい人たちは、この使用法を推奨しているようだけど、だけど、この使い方をすると、少し冷静すぎないだろうか、という感触が残ることがある。
違和感を覚えるの、「覚える」は記憶するとは違うのは頭ではわかっていても、覚える、という言葉はずっと記憶関連の言葉として使ってきているから、どうしても、どこかで冷静さというか、より理性的な作業に感じてしまう。
だから、覚える、といった瞬間に、昔のマンガの大物がうなずくような「うむ、違和感を覚えた」などというイメージになってしまい、その違和感が、よくいえば成熟しているようになるし、悪く言えば老けてしまうような気もする。
だから、とっさに使う時に、「違和感を覚える」は使いにくいし、ちょっと間を置いて使うような言葉になってしまっている(あくまでも個人的には)。
さらに具体的にいえば、さっきの「違和感」を思い出して、その「違和感」の正体を思い返して、考えて、ある程度、はっきりしたときに「違和感を覚える」と使うほうが、ふさわしいように思う。
「違和感を感じる」を考える
違和感というのは、個人的にはニュートラルな表現だと思っていて、そして、同時にかなり重要な感覚だと思っている。
それは、あれ?という感触とともにある。
たとえば、いつも会っている人なのに、いつもとは違うような印象。
それは、とてもわずかで、まだ確信もなく、どこが変わったのか、わからないのに、ただ、あれ?なんか違う、といったような感触。
それは、時として、まったくの勘違いだったり、的外れなこともある。それでも、違和感が、大事なことを、早めに知らせてくれて、それからのひどい出来事を防いだり、相手の変化に気づくことで、もしかしたら本人よりも早く発見することで、もっといい結果に結びつけることができたり、といったことも可能になるので、「違和感」は、とても大事になる。
ただ、その「違和感」は、とてもささやかで、ちょっと目を離すと消えそうで、わずかなものだから、もしかしたら違うかも、といった気持ちと共にあると思うから、それは「覚える」という冷静さよりも、「感じる」というような、自分でも、まだ確信を持てないような表現のほうが、より正確なのではないか、と(個人的には)思う。
だけど、どんな場合でも、その「違和感」を、どうして「感じたのか」に踏みとどまって、だけど、あまりにらみつけるような態度ではなく、もう少し柔かい集中力を使わないと、逃げていってしまいそうな「感覚」だから、やっぱり「感じる」のほうが近いと思う。
しかも、それは、「感じる」くらいだから、まだ自分の外にあって、それを、どうやって、つかまえる(より、もっとソフトに)かに、気を配らないと、その「違和感」は、どこかへ去ってしまう、というイメージに近い。
違和感は、感じるか、感じないか、くらいのもので、覚える、という表現になった時には、もっとしっかりしたものになっているような気がする。だから、違和感の程度としては、「覚える」の方が「強い」のかもしれない。
「違和感を持つ」を考える
これは、個人的には、使い方が限定されているように、感じる。
疑いが基本。
何か交渉ごとがあって、このままいけば、どちらにも納得がいくような契約がされるはずだった。だけど、その時の会話、契約書、何より相手方の反応や気配。そこに、何か変な感じがあった。
そのことによって、もう一度見直してみたら、実は、ものすごく分かりにくいのだけど、こちら側にとても不利になるような条件が仕組まれていたことがわかった。
ちょっとベタな例で、申し訳ないのですが、そんな時に、使うのが、「違和感を持つ」で、嫌な予感に近い言葉として、捉えている。
だけど、これは、もちろん個人的な感覚に過ぎないので、絶対ではありません。
「違和感がある」を考える
つい最近、病気の後遺症について語っている人をテレビ画面で見ていたら、この使い方をしていた。
まだ、胸に違和感がある。
この違和感がある、という使い方は、このように体の感覚と密接な関係があるように思う。
病気などでなくても、たとえば、スポーツ関連で一番聞いた記憶があるのは、プロの野球のピッチャーからだったと思う。
肩に違和感がある。
こうした言葉を聞くたびに、これは、自分の体に対しての繊細な感覚がないとわかりにくいことだろうし、さらには、草野球の中年で体も結構太ってしまったピッチャーが言うと、似合わないような気もする(偏見も入っています、すみません)。
これは、自分の体のことに関して、この場所が、なんだか変だ。変なのは、確信を持って、分かる。だけど、その原因や、どうなって、この「違和感」になっているのかが、わからない。
そんな時に、「違和感がある」という表現が選択されているように思うし、おそらく自分でも、そうやって使ってきたと思うし、これからも、そうした場面で耳にすることが多いように思っている。
個人的には、一番、「違和感がある」経験が多いのは、フットサルなどをしていて、肉離れになる寸前の「太ももの裏」に関してだった、と思う。だいたいは、そのあとに、本当に肉離れをして、違和感から痛みになり、もう動けない人間に成り下がるのだった。
「違和感」について考える
こうして、違和感について、そのあとに続く動詞に種類があるということは、違和感というもののバリエーションが多く、個人差もあり、状況によってしっくりする表現が変わってきたりする、かなり幅の広いのが「違和感」なのだ、と思う。
いろいろな動詞が使われて、そして、その正誤が問われるものの、「違和感」の幅が広すぎて、結局は正解が、あいまいということになるのかもしれない。同時に、それは豊かさでもあるように思う。
そして、自分の「違和感」を説明するのが難しいから、それになるべく近い動詞を選ぶ、というような背景もありそうだけど、個人的には、これから先も「違和感を覚える」よりは、「違和感を、感じる」を使う方が多そうなので、それで、やっていこうと思っています。
もっと歳をとって、人格的に落ち着いてきたら、もしかしたら「覚える」を多用するかもしれませんが、それを想像するだけで、まだ微妙な「違和感を感じて」います。
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