耳
「うちには、鬼がいるんだ。それもたくさん」
そう話す父の顔は、今朝よりもひどく老け込んでいるようだった。
目覚めた私は、怠くて重い身体を引きずるように起き上がった。枕が体にあってないな。鉛のように重いとはこのことだろう。体じゅうが凝り固まっていて、立ち上がるだけで悲鳴を上げる。小さく伸びをして、部屋の空気を入れ替えようと思う。部屋に一つしない大きな窓は遮光カーテンの隙間からやわらかな光を漏らしていた。カーテンを引いて開けると、濡れた松の葉が目に映る。雨だったんだな。幸い、雨は強くもないため、窓を開けた。廊下の窓も開けなくては。廊下には小さな窓が2つある。すりガラス越しに、灰色の空の色が見える。古い戸だ。窓はガラガラコロコロと音を立て、土の匂いを含んだ湿った風を通すために開く。
鬼のひとつは、この古い窓に棲んでいる。
その日の夕方だった。夕方になると蒸し暑い。今朝のたっぷりと水を含んだ雲は、昼にかけて大雨を降らせ、今はしとしとと余韻を聞かせている。今朝開けた窓は、昼にエアコンをつけるために閉めた。また、開けに行こうかな。
廊下の北向きの小さな窓は、紫とオレンジと灰色の混じったお世辞にもきれいとは言えない混沌とした色だった。窓のアルミの縁に手をかける。金属にしては変にぬるい気持ち悪さ。ガラガラコロコロと開けると、私は驚きと恐怖でヒュッと喉を鳴らした。
耳があったのだ。
耳だけが。
慌てて階下の父に知らせる。父はダイニングで座っており、息を詰まらせて階段を滑り降りて来た私を、マグカップを持つ手を止めて見ていた。
「お父さん、上の窓に」
言い切る前に、父が口を開く。
「耳か。声はしなかったか」
声? 声はしなかった。
「耳だけが網戸に張り付いてる。声はわからない」
「そうか……。」
父はマグカップを置くと、細く息を吐いた。決意したように口を開く。
「うちにはな、鬼がいるんだ。それもたくさん、な」
父は絞り出すような掠れた声で続ける。
「“あれ”は、『うしか』と言ってな。俺たちの話を盗み聞きしては、屋根で騒いでいるやつだ。今のお前には声が聞こえないが、いずれ聞こえたり見えたりするかもしれない」
父はゆっくりとコーヒーをすすると、続ける。
「いいか。絶対に目を合わせてはいけない。この話を聞かれてもいけない。存在に気づいていることを知られてはいけないんだよ」
父は、こんな顔だったか。深く刻まれた皺や溜池のようなしみ。今朝よりもひどく老け込んだ父は、ため息をついて眉間に皺を寄せる。
「早いもんだなぁー……」
それ以上は、聞いても教えてくれない。
ただ、この家には、耳以外にも鬼が棲んでいる。それに気づいてはいけない。
「うしか」って完全に「蝸牛(かぎゅう)」に引っ張られているなと起きてから笑いました。蝸牛は耳の中の器官の名前です。怖くないからググってみてね。
あと朝の描写は夢じゃなくてガチ寝起きで、それ以降がダイニングの椅子で二度寝した夢。