【連載】黒煙のコピアガンナー 第二十五話 前編 嵐、過ぎ去りて
[第二部]フレイムシティ編
[第一章]夫人護衛任務
[第二十五話 前編]嵐、過ぎ去りて
≪患者ファイルNo.53341≫
氏名 アマンダ・ネイル
年齢 14歳2ヶ月
身長 162cm
体重 38.4kg
体脂肪率 14%
健康状態 軽度の栄養失調、食欲不振、不眠症、内臓疾患なし、甲状腺機能正常
コピアによる被害状況 筋力低下、免疫機能の低下、発育不全、直近の病気などの恐れなし
旧研究所での身柄確保から3日経過
何も音がしない。馬車の音も家畜の鳴き声も風の音さえもこの部屋には入ってこない。そんな病室でアマンダは3度目の朝を迎えた。
清潔感のある白を基調にした殺風景な病室がリヴォルタに来てからのアマンダの部屋だった。ベッドと机、クローゼットなど生活に必要最低限の家具が備え付けられており、奥にバスルームがある。その他のインテリアはない。それでもアマンダにとってその部屋は現在の自分を守ってくれる唯一の空間だった。
真っ白い掛け布団から這い出て綺麗に磨かれたタイルの床に足を下ろす。掃除はリヴォルタの職員が毎日モップをかけに来てくれている。ペラペラの白い布製のスリッパをつっかけてみた。軽くて足に馴染むいいスリッパだった。
ピンポン、と耳をつんざくような電子音が鳴る。アマンダはまだその機械的な音に耳が慣れず、鳴る度にビックリした。来客が来ると鳴ると教えてもらっていたのでアマンダはこれもまた使い慣れていないインターホンのボタンを押して応答した。
「はい」
「サルサ・ミコスです。おはよう、アマンダ。よかったら一緒に食事でもどう?」
アマンダは返答に戸惑った。目上の人との話し方をギャングでは教わらなかった。
「あの、その……」
「すぐそこの休憩室に行くだけだから安心して」
アマンダはサルサに心を許しかけていた。初めて会ったのは旧研究所から脱出するトラックの中だった。ピートに無理矢理押し込められ、意気消沈していたところを優しく声をかけてくれた。
「……はい。今、支度します」
アマンダは作業を始める。インターホンの通話終了ボタンを押し忘れていたのでバタバタする音がサルサの耳に届く。
「起きたばかりだった? ごめんなさいね」
「いえ、大丈夫です。5分待ってください」
アマンダは通話終了ボタンを押して、身支度を始めた。
ここへ来てからアマンダは驚くことばかりだった。水道の蛇口をひねればいつでも水が出てくる。しかも温度設定まで可能だ。消耗品は常に補充されるので石鹸や歯磨き粉などの衛生用品を切らすことはない。ヘアクリームをつけてブラシで髪をとかしたら元々ストレートヘアだったアマンダの髪がより一層艶やかになった。
5日分揃えてもらった衣服も着心地がよかった。リヴォルタの敷地内にある衣料品店で安売りしていた服をサルサがアマンダに買い与えてくれた。温かくて柔らかい新品のセーターをアマンダは気に入った。空の青とは違った感じの濃いめの青のセーターだ。コバルトブルーだとサルサは教えてくれた。
アマンダが病室から出ると、サルサは笑顔で出迎えた。
「おはようございます、チーフガンナー」
「サルサって呼んで。私、あなたとはお友達でいたいの」
「……サルサさん」
「はい、アマンダ。行きましょうか」
サルサとアマンダは歩き出した。
「今日で一通りの検査が終わるようね。どう? 緊張した?」
「血を採るのが怖かったです」
「採血は初めてだったの?」
「はい。薬を注射されたことはありますけど、血を採られるのは……」
アマンダは背筋がゾクッとしてきた。気を失いこそしなかったものの、血を抜かれている間アマンダは頭がクラクラして体が急激に冷えるような感覚に襲われた。念のため、採血が終わって15分ほどベッドで休ませてもらったほどだった。
「あちこち連れ回されて疲れたでしょ。しっかりご飯を食べてゆっくり休んでね」
「ありがとうございます」
休憩室は患者が自由に出入りできるスペースだ。軽食の売店とセルフのドリンクコーナーが設置されている。窓の近くには本棚があり、誰でもそこの本を読んでいいことになっていた。
「あ、アマンダ」
「ピート」
休憩室の前でピートと出くわした。このフロアは一般病棟だが、先日の旧研究所の騒ぎで負傷した人だけが集められていた。騒ぎのことが外部に知られないための簡易的な隔離措置だ。
「お前、何にする? 俺、チョコレートケーキ」
ピートはズボンのポケットから小銭をジャラジャラ出して会計する。
アマンダはテーブルにズラッと並ぶかわいらしいケーキやパンに目移りする。何種類かのドライフルーツが詰まっているパウンドケーキやサクサクした食感がおいしいクロワッサン。それらのここでは当たり前に食べられるものがアマンダにとっては初めて見る食べ物で、味の想像すらつかなかった。
「先食ってるぞ、アマンダ」
ピートは真ん中辺りのテーブルを陣取ってチョコレートケーキを食べ始めた。
「じゃあ、私もチョコレートケーキ」
サルサがアマンダの分も払った。レジ係がそれぞれの注文した食べ物が乗ったお盆を差し出す。
「朝からチョコレートケーキでよかったの?」
チョコレートケーキのお盆を大事そうに持って席に向かうアマンダにサルサは笑いかける。
「どれがおいしいかわからないから、まずは人が食べてるものからにしてみようと思って」
「ふふ、ピートとは打ち解けたのね」
アマンダは照れ笑いした。ピートは毎日アマンダの病室に見舞いに来た。暇潰しに使われているのだと思ったが、話してみると案外いいやつだった。ピートはガサツで配慮にかける部分が多いが、いつも楽しく生きようとしていた。
「アマンダもチョコレートケーキにしたのか」
「うん。おいしそうだったから」
アマンダはステンレス製のピカピカのフォークでチョコレートケーキの角の部分をゆっくり取って口に運んだ。
口に入れた瞬間ねっとりとろける甘いチョコレートケーキがアマンダの口の中に革命をもたらした。
「おいしい!!」
アマンダは思わず目を見開いて叫んだ。
「だろ?」
ピートは自慢げだった。
「すごい! 何これ! どうしてこんなに甘いの!?」
「お茶を持ってくるから待っててね」
がっついて食べるアマンダとそれを見ているピートを席に残してサルサはドリンクコーナーに行った。1人ならコーヒーを飲むが、チョコレートケーキなら紅茶がいいか、とサルサは珍しく紅茶を選ぶ。ティーバッグをお湯に浸して戻ってきた。
「少し蒸らしてから飲むのよ」
サルサはそれぞれの手元にティーカップを置く。
「ピートはもうすっかり元通りの生活ができそうね」
「そうなんですよ。もう何も壊さずに外歩けます。すごいでしょ?」
「一時はどうなるかと思ったけど。よく頑張りましたね」
「俺は頭は悪いけど運動神経はいいんですよ」
「ええ、そうね」
サルサはピートの軽口に愛想笑いで返した。
「アマンダはどう? もうここの生活には慣れた?」
アマンダはチョコレートケーキのついたフォークを舐めていた。
「あっ、その、少しは慣れました」
サルサは思わず微笑む。
「検査結果は早くとも来週中に出るそうですから、それまではここの生活がどんな風か見て回るといいですね。ピート、案内してあげて」
「もちろんですよ。俺、超暇だし」
ピートは何故かこれも自慢げに言った。
「アマンダは大丈夫ですよ、チーフ。俺なんかよりちゃんとしてますから」
ピートはアマンダを慰めるつもりで言ったのだろうとサルサは受け取った。ピートはデリカシーがないように見えて意外と空気を読むタイプなのだ。
「そうね。読み書き計算はアマンダの方ができるみたいだし」
サルサはそれをわかっていてあえてピートをいじるのだった。
「それ今関係ないですよ!!」
「あははははは!」
アマンダは久しぶりに声を出して笑った。ピートを見ているとなんだか気分が明るくなるのだ。ピートの置かれている状況はアマンダと変わらず過酷なのだが、ピートにはそれを感じさせないゆるっとしたオーラがあるのだった。ピートがいなければ、リヴォルタでの生活はアマンダにとってもっと厳しいものになっただろう。
「そろそろ飲めそうよ」
サルサがティーカップを指さした。
「はい」
アマンダはティーカップを持ち上げて紅茶を一口含んだ。
「ん……これ……」
アマンダの目に自然と涙があふれてきた。アマンダはその香りと味に覚えがあった。アマンダはティーバッグの持ち手の紙のロゴを見る。”Patient”と書いてあった。その紅茶はアトラスの部屋で飲んでいた略奪品の紅茶と同じだった。
「アトラス兄さんの紅茶と同じだ……」
アマンダはポロポロと涙をこぼして紅茶をごくごく飲んだ。懐かしい味と共に不安な気持ちが胸の奥底から再び噴き上がってきた。
アマンダとピートが遭遇したスネイクという人物の情報が正しければバークヒルズは襲撃を受けているはずだ。だが、バークヒルズの安否はリヴォルタでも把握できていなかった。バークヒルズとの交流はリヴォルタでは禁じられており、何が起きていても手出しはできない。アマンダは誰か1人でも生き残ってくれていたらと心の底でずっと願い続けていた。
ピートが泣き出すアマンダの肩に手を置いた。ピートの手の温もりでアマンダは少し落ち着く。触れている面積は少ないが、そのわずかな手の温もりだけで、ピートが本気でアマンダのことを心配してくれているのだとわかる。それが今のアマンダにはありがたかった。
「サルサさん。一度、バークヒルズに戻ることはできませんか? 皆の無事を確認したいんです」
絞り出すようにアマンダは懇願したが、サルサは残念そうな顔をした。
「それはできないのよ、アマンダ。あなたを一度でもバークヒルズに帰したら、もう戻ってこないかもしれない。その恐れがある以上、あなたをリヴォルタから出すわけにはいきません」
「そんな……」
アマンダは自分が不自由な身なのだと改めて自覚する。予想していたことではあるが、緊急事態でも一時的に滞在することすら許されないのは耐えがたかった。
「大丈夫だ。アマンダ。お前の家族は皆きっと生きてる」
「でも……」
ピートが慰めようとしている。アマンダはその優しさに応えたいが、こればかりはどうにもならなかった。今すぐにでも助けに行きたい。安否を確認したい。だが、自分がそこに行くことはできない。もどかしくて、やるせなくて、無力な自分が安全な場所で生きていること自体が申し訳なく思えた。
「アマンダ。リヴォルタは今回のことをうやむやにするつもりはありません。身元不明の侵入者が何者で何を目的にしているか、バークヒルズを襲撃することとそれは何の関係があるのか調べる必要があります。何かわかったらすぐにあなたに知らせるから、今は自分の心と体を休ませることを優先してください」
「はい。わかりました……」
アマンダは涙を拭いて少し落ち着きを取り戻した。紅茶のロゴをじっと見つめてうつむいている。
「さて、飲み終わったのなら戻りましょうか。アマンダは11時から検査が始まりますね」
「はい……」
「ピート、暇なら付き添いをお願いね」
「了解っす」
「では、私は仕事に戻りますから、何かあったらチーフガンナー室の内線に電話してね」
サルサは自分の紅茶を飲み干して、返却台にお盆を置きに行った。席に残っているアマンダとピートに手を振り、休憩室を出て行く。
「チーフ、アマンダはどうですか?」
廊下の先でカズラがサルサを待ち構えていた。
「ピートがそばについていてくれてますから大丈夫でしょ」
カズラは休憩室からは見えないように壁際に立ってアマンダとピートの様子を見る。
「アイツら、仲いいですね」
「あなたももうそんなにコソコソすることないんじゃないの?」
「私はあの子に酷いことしちゃいましたから……」
カズラは苦笑いする。
「レンのコピアガンを旧研究所でなくしたことは別に気にしてないですけど、私の顔見たらアマンダはまた心を閉ざしちゃったりしませんかね」
「あなたがアマンダを悪く思っていないときちんと伝えてあげれば大丈夫ですよ」
「……そうですね」
カズラはしばし考え込んだ後、顔を上げて言った。
「バークヒルズの現状で何か言ってあげられることはないんですか?」
サルサが今度は顔を曇らせた。
「バークヒルズに関して1つだけたしかな情報があります。バークヒルズ上空から撮った衛星写真です。3日前、ギャング病院から火の手が上がっているところが撮影されています。襲撃があったことは事実です」
「そうですか……」
「しかし、人がどれだけ被害に遭ったかの情報はありません。アマンダを不安にさせるだけですから、何も言うべきではないと思うの」
「調査もしない方向ですか?」
「今まで通り、双方不干渉が原則です」
「わかりました」
カズラは頭を下げた。
「お時間ありがとうございます、チーフ。仕事に戻ります」
サルサはカズラに挨拶し、廊下を歩き始めた。
カズラはサルサが見えなくなってから廊下を歩き出した。が、電話が来て再度立ち止まった。
「コガです」
その電話はアオイの部署の同僚からだった。
「あの、アオイさんが来てないなんですが、お休みですか?」
「はい? アオイは今朝も私より早く出勤したはずですけど」
「さっき託児所にも問い合わせてみましたが、スバルくんも来てないみたいで……」
「まさかそんなわけ……! ちょっと家見てきます!」
カズラは電話を切り、オフィスに戻らず家に直行した。