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緘黙
緘黙という症状がある。
選択性緘黙と言ったり場面緘黙と言ったりもする。
本来話す事ができるのに、特定の場面で話す事ができなくなる。
家では喋るのに、保育園では喋っていたのに、小学生になったら急に喋らなくなったりする。
で、高校卒業後に急に喋り出したりもする。
今年中学生になる彼女も喋らない。
何かあったら手を引っ張って教えてくれる。
前髪を切ったことや、柔軟体操で足に手が届くようになった事を身振りで教えてくれるが、僕の名前を呼んでくれることはない。
どうしても伝わらない時は指でところ構わず何やら書いてくれるが、何を書いているのか僕には全然わからないので、ホワイトボードを渡すと恥ずかしそうにしながら、少しだけ文字を書いてくれる。
でも、ちょっと描いたらすぐに消してしまって、言葉としても、線としても、自発的な意思としても、自分の痕跡を極力残さないようにしているようだ。
言語表出に難しさがあり、その難しさを自覚できるから、自己肯定感が上がらず、できない自分の痕跡を自分でも見たくないのか、頑なに表出を抑えている。
人と交流することにまるで興味がないわけではないので、一生懸命に手を引っ張ってアピールするが、そこにあるのは言葉を超えた共感で、具体的なものはない。
初めて僕と筆談をした時、僕が書いた彼女の質問への答えを、彼女はなかったことにするように、すぐに消してしまった。
talking means trouble.
ある知り合いが、学生時代からの友達と一緒にやってきたファッションレーベルを解散して作ったレーベルの名前だ。
話し合いは、誰かと一緒にものを作るときに必要なプロセスだが、同時に抽象的な表現について話すことで、詩的な意匠は、集団意識となり、尖った個性は削れ、掴みやすい何かになる。
建築的で、良いところだけを積み重ねて、実りある思考実験になるような、理想のコミュニケーションを夢見るが、現実の話し合いは、災いのもとであり、機能不全の最終段階のようにも思える。
そういう意味では、自分の主張をすることと、言葉を話すことはセットではないし、表出しない事は、不要な摩擦を産まず、むしろ効率的なのかもしれない。
大事なのは、これは譲らないという意思で、それは無言でも伝えることができる。
社会的に見ると、そんな僕らの多くも場面緘黙なのかもしれない。
他人の意見を気にして、自分の意見を発信しない。
出来ないわけではないし、何も思っていないわけではないが、他人の意見を眺め、消費するが、自分の考えは表に出さない。
受動的に反応はするが、自発的に考えない。
これはそんなマジョリティの肖像なのかもしれないし、表出しない事への戒めなのかもしれない。
(お話のモデルになっている人の年齢や性別や設定は個人情報に配慮してあえて創作を加え、実際の情報とは変えてあります。)
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