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アートって?

それがどんなタイプの作品であろうと、全ての作品はこの問いへの答えを内包している。
質問の答えは作風や作品の意匠として細部に反映される。
この質問に一つの答えは存在せず、時代の求める何らかの答えを見つけ出し、この質問の解釈を広げる事こそ文脈への言及であり、アートの伝統の踏襲だ。

もちろんこの質問のみが作品の価値を決めるわけではないが、この質問への秀逸な答えはゲームチェンジャーとなり、文脈の一部となる。

クオリティによっては世界の共通の言語となり、多くの人の目に触れる可能性を生む。
しかし、この質問への答えを探すあまり、作品が分かりにくくなり、一般のオーディエンスへのハードルが高くなる事もある。

例えばアートとは、この文章のように「アートってなに?」という問いに答える事と仮定してみる事にしよう。であるならば、何の視覚的なイメージを作る事なく、文字情報のみでアート作品を作る事ができる。
しかし、それが文芸ではなくて、アートである必要があるかと聞かれると疑問である。
それは評論と言った方が多くの人に届くかも知れない。

そんなカテゴライズすることがそもそもナンセンスかも知れないが、現在、自分が確認しているそのいくつかの条件、可能性をあげて、自分の考えを整理してみようと思う。

答えはないとしても、いくつかの条件はこの時代のアートである上で必要である。
それはニーズの問題でもあるし、社会的意義の問題でもある。
自分以外の誰にも必要とされないものは、自分の引き出しにしまっておいたらいい。


画材を使って作るものまたは、既存のものを使って遊ぶもの

日本語で「アート」と画像検索をすると、無作為に絵の具で塗られた色面が出てくる。
ポロックのアクションペインティングの影響を受けた日本の作家もたくさんいた。
もちろん、今でも根強い人気があり、現役の作家を何人も知っている。

画材で作ったり、絵の具で塗ると手っ取り早く作品っぽくなる。
アートを「高い技術を持った人が画材で遊ぶ事」と定義している人が多いのかもしれない。

画材はそもそも夢のある商品であり、その価値を損なわず使うことは難しい。
大抵の場合は、画材の無駄な消費に終わる。
その意味では楽器も同様の商品だ。
夢はあるが、使い方次第でゴミにも毒にもなる。

そのような夢のある商品を有意義に、巧みに消費する様を、同時代に生きるものとして見たいという需要がある。

アートヒストリーの文脈と、画材の進歩は確実にリンクしている。
その意味ではまだ画材と認識されていない新しいものを素材として使う作品は今後も増えてゆくと思う。

言ったもん勝ちという感じに、パフォーマンスやワークショップなど作品として発表されるもののバリエーションは増えてはいるが、では音楽なら音楽、演劇なら演劇、ダンスならダンス、ワークショップならワークショップの作品と並列で見た時に、「言ったもん勝ちの価値」は保たれるのだろうかという疑問は残る。

演劇のような作品なら、なぜ演劇として劇場で上演しないのか?
これがアートである必要性は何か?
それはダンスや演劇などというフォーマットですら遊びの道具として使えているかにかかってくるように思う。


非日常性

ギャラリーは空間として非日常性を担保する。
ニュートラルな空間に置かれたものは、日常から切り離され、非日常性を得て、ある意味寓話的に解釈できるようになる。

そういう意味では、「ギャラリーや美術館に意図的に置かれたもの」はアートになり得る。
しかし仮説の逆、「同じものをそれ以外の場所に移動させるとどうなるか?」「屋外展示の作品は?」「ストリートアートは?」などの新たな疑問も生む。
レディーメイドは逆説だから意味があるが、それは非日常的な空間の庇護のもとのみ存在できる。

アートはスーパーに売っていない。
アートが生活に必要ないからだ。
だからこそアートは存在自体が非日常的で、非日常性を求められる。


観る者が決めるもの

ある作品を作る過程で一番初めの観客は自分自身だ。
だからまず、自分自身が納得している必要があるが、次にその作品を見る他者の存在が必要である。
誰にも見られることのない作品は存在していないのと同義である。

そして、この誰かが多ければ多いほど、アートと認定される確率は上がる。
ネットや街で作品を公開することのメリットは、見ることのできる人の数を増やすことだ。

インスタレーションや一部の写真禁止の作品は逆に来た人にしか味わえない体験を作品にする。
写真があると、ある程度見た気になるが、あえて写真を公開せず、口コミだけで情報を拡散することで、「ちゃんと見た」人だけを増やし、結果的に多くの新たな観客を得ることに成功している。

ドイツで大学に行っていた頃、現地の同世代の人に、大学で何の勉強をしているか聞かれた際に、自分が「アート」と答えると、「そんなの大学で勉強できる物なの?」とよく言われた。
この発言の根底には、アートとは捉えられない才能のような物であり、「狙ってなる」というよりは、「結果的に認定される」物と考えられているようだった。
ボイズのはちゃめちゃな印象が強いからか、自分の意図でなる物ではないし、ましてやそのための勉強をする様なものでもないと考えられているようだ。

アウトサイダーアートや一部のフォークアートには、そのような自分の作業欲求のために作品を作り続け、結果的にアーティストと呼ばれる人がいる。
その人たちは、作り続けることで、周囲に作り続けることを認められた人たちである。
ある人は地域文化の源泉となり、ある人にはパトロンや支援者が付き、作り続けることを許される。

その収入が一定に達し、納税することができて初めて、作り手は初めて作り手として社会から認められる。
自称アーティストと呼ばれる人に足りないのはこの社会から認めらたという証である。


希少性

ポップアートはこの逆説を作品化したが、結局のところ大量生産されるものがアートであるなら、美術館に行かずスーパーやおもちゃ屋に行ったらいい。

版画やリトグラフなど複製可能なものは、ロットナンバーをつけて販売されるなど、希少性を担保することで作品としての価値を保っている。
NFTの流行もこの流れの中にある。

写真集や書籍、動画や楽曲のデータなど、複製品を販売することで経済的に成功する作家もいるが、その根拠となるのもオリジナルの希少性なのだと思う。
オリジナルがありきたりなのにその複製に価値がつくとは思えない。


クオリティー

本来、技術的なクオリティの高さは必ずしも必要ではないはずだが、工芸的なクオリティの高さ、細部の作り込みを無意識に求められる。
「これやったら誰でも描けるわ」と言われがちな抽象絵画でさえも、いや、だからこそ簡単には描けないし、クオリティーを求められる。

数年前、ストリートアートのアイコンともいうべきアーティストの作品が東京で見つかり、ミーハーな都知事が作品の前で記念撮影をするという謎のニュースがネットで流れた。

本来なら落書きは犯罪なので、器物損壊などで指名手配されていてもおかしくないのに、落書きを、都が公式に展示したりしたらしい。
書いた本人はこれを見て爆笑していることだろう。
どうやら東京では有名人の作風を真似た落書きは認められるらしい。

同じような場所に描かれた、同じような作品でも、かたや犯罪でかたや勝手に展示までされる、この違いはただただクオリティーの違いである。

クオリティーは法律を捻じ曲げてしまうようだ。


話題性

いい映画を見ると誰かと喋りたくなる。いい作品もそんな高揚感を生み出す。
もちろん、言葉が出てこなくなるようないい作品も存在する。
そんな作品に出会ったとしても、なんとかその思いを言語化して、誰かに共有したいと考えるだろう。
もしくは、密かに心のどこかにしまっておいて、何かのタイミングで、その作品を思い出し、その作品について話したくなるかも知れない。

存在自体が問いになっているようなタイプの作品もある。
「なんでこの作品がそんな値段に?」とか、「なぜトイレ?」など疑問を呈するような作品は、作品自体が問いになっていて、答えがない。
この問いはその作品の画像であっても同じ疑問を喚起する非言語の問いとなっている。

また、その作品を今紹介する意味。社会に問うべき必要性について考える必要性がある。
作品の喚起する新たなコミュニケーションは作品の波及効果となり、最も小さい範囲の2次創作の創出を促している。

いい作品は人を動かす。
自分も作ってみたいと思うか、収集したいと思うか、そのことについて話したいと思うかは人それぞれだが、視覚情報に付加価値的な質量がつくように、情報に力が付く。


無駄なこと

生活必需品はアートとは認識されない。例えば水は美しく、普遍的で、人が生きてゆくのになくてはならないものだが、だからこそこれが誰かの作品とはならない。
本当に必要なものは国が確保したり、さまざまな業種で製造され、安価に供給されるべきだ。

アートは人が作るもので、それ以前に作られていなかったものなので、著作権が生まれる。
アートは無駄ではない。しかし必要でもない。

生きるか死ぬかの瀬戸際では、我々が思わないようなものが美しく感じるかも知れないし、一般的にはアートはある程度余裕がないと存在し得ない。
人生を豊かにしたり、生きる勇気をもらうためには、無料で配布される複製でも十分だ。
しかし、オリジナルを見て感動したり、よくわからないが記憶に残ったり、水とは全く違う形でその人を形作る栄養となる。

必要のなさがアートを合理性から解放する。
その意味でアートは自由だ。

あらゆるものがアートであり得るし、その定義も拡大し続ける。
だからと言ってなんでもいいわけではないが、飲料水を作り続けるような重大な責任により自分の行動が制限されるようになってはいけない。


多様性

毎日白いご飯さえあればみんな満足なら、アートは必要ないのかも知れない。
しかし、生活が豊かになったがゆえに、他人の家の芝と自分の家の芝を比べられれるようになった。
ふりかけもたまには変わったものをかけたいし、納豆もいろんな味を選びたい。

いつもと違うものは、新たな経験と感覚による刺激を生み、脳を活性化させる。
そのことについて喋りたいという気分を作ることもできる。

我々は必要なものに囲まれて生活しているが、必要ないものも必要としている。

情報はそんなものの最たるものだ。
一昔前、携帯を持って歩くことなど考えてもいなかったが、今は携帯にほとんどの機能が備わり、携帯を忘れるなんてことは社会人としてあってはならないような状態になっている。

有益な情報や必要な知識は現代を生きる上で、最も重要な財産である。しかし、同時に無駄な、生きる上では必要のない情報を得ることに喜びを得る。

最近では多様性という言葉を一般的なアーティストが使うことはほとんどなくなった。

多様性という言葉が示すものは障害や人種、性的指向などのマイノリティによるものがほとんどとなり、作品を作ろうという人が多様と思っていた自分の生き方が、まるで普通であることに絶望して、この言葉を使えなくなっているのかもしれない。

実際、自分の出自や性質、属性が作家の特性になっているような作家をよく目にするようになった。
そんな作家が作る作品は、その性質ゆえに、作った時点で多様性のコンセプトを獲得するからだ。

そこから派生したコンセプトに「当事者性」がある。
社会的な問題をテーマに作品が作られた時代があったが、もちろん最初はまるでよそ者のアーティストが作品を作ることで、問題に焦点を当て、問題だと認識されることに成功したという経緯があった。
現在は誰でも情報を発信する事ができるようになり、問題の当事者の声をダイレクトに聞く事ができるようになった。

例えば虐待のある家庭のように、当事者にとって殴られるのが当たり前の状態が、実は当たり前ではないように、中から問題が認識できない場合がある。
だからこそ、外からコミュニティにやってくる他者(パッセンジャー)が問題を指摘する必要があった。
しかし、教育やジャーナリズムの発達により、アートの役割は変わり、今まで無視されてきた「では実際、当事者はどう思っているか?」という問いに作品として答えが提示されるようになった。

もちろんそれは、多様性を標榜するアートの流れの健全な方向性であると同時に、5体満足な我々には、別のベクトルの多様性を探求する必要が生まれたことも自然な流れのように思う。


非言語的なもの

過去の名作の解釈は多数存在し、作家が伝えたかったことがこういうことではないかと推測することは可能だ。
しかし、もし仮にそれが作品の本当の目的だったとして、そう言語化し、文章として残したりしなかったのはなぜなのかという疑問は残る。

現在の作家に作品の意図を尋ねて、作家がなんらかのメッセージを発したとして、その発言のみが作品の本質であるなら、なぜそう言う論文を発表しなかったのか?
非言語の表現としたのはなぜか?
アートがそういうものだからというのは結果論の話だが、非言語の表現に言語表現にないメリットが存在したから現在までアートが残っているのは確かだろう。
そして、その文脈の末端の一部として、すべての作品は位置付けられる。

この説の逆説的な解釈が、数字や文字だけ書かれたペインティングやメディア作品、パフォーマンスや遊びなどの営みのレシピのみが書かれた作品などとして存在するが、言語的な物を表現のメディアとして選ぶなら、本当にそれが大事なら、もっと効率的にそのメッセージを他者に届ける方法がいくらでもあるように思える。

本質を問うことが流行ると、その逆説もまた流通する。
マーレビッチやデュシャンやケイジの極端な作品に驚くのは無理もないが、それらの作品は対極だからこそ価値があるのであって、結局中庸ではない。


増え続けるもの

正解がないというアートの特性上、この文章も増え続ける宿命があるように思う。
技術の発展とともにアートの定義は更新され、今はまだそれを表す言葉もまだないようなものがこの先アートとして定義されてゆくことになるだろう。

あなたはアートとは何だと思いますか?
よかったら考えてみてください。

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