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コンセプトのその先

アートの強みは説明が無くても一目で作者の意図が伝わる、いわゆる非言語のコミュニケーションに特化した結果、言葉の壁を破り、一瞬でメッセージを伝えることができることだ。

古典絵画などが理解できないのは、その時代背景や習慣、社会情勢など、当時の人が当たり前に肌で感じていた常識を我々が知らないからだ。

しかし、古典絵画についての説明は、ただの歴史の解説よりもよっぽど面白いのも確かである。
作家は様々なメッセージを隠すことができたし、無意識で本心が現れてしまうようなことも多々あったと思う。
そのような取り上げられ方をメディアでもするようになり、我々が美術作品と出会う場は静寂の美術館では無く、何らかの回答、誰かの解説とセットになっている事が多くなった。

実際、その場合の情報量は、イメージのみの情報量より多く、理解にかける時間も短い。しかし、同時に「こういう物」とイメージをカテゴライズして整理して消費するまでの時間も短い。
情報は溢れ、作品鑑賞の形が変わり、鑑賞者は情報を素早く処理をする必要が出てきた。

同時代の「コンテンポラル」な作家として、その作品の意図やコンセプトを言語化してほしいという、社会的要望から、次第にコンセプトに比重を置き、キャプションありきの作品が多くなってきた。
コンセプトアートはそのような状況を反映したものだっただろうし、最初は皮肉や批判として作られた作品も多かったのではないか。

だからコンセプトアートの流れを汲む作品はそのイメージを見ても意味がわからない。
元々キャプションで説明するつもりなのだから当たり前だ。
このジレンマがアート本来の強みを現代のアートが発揮できない理由である。

評論は2次創作であり、インスピレーションの源である1次作品よりもむしろ情報量が多く、客観的視点が加わる事である種の社会性を獲得している。
そういう意味では、2次創作の方が経済規模も大きく、需要もある。
評論家やキュレイターの作家性が強くなり、キュレイターが業界全体を主導している原因となっている。
同時に現代美術が「分からない」と言われる所以もそこにあるかもしれない。
わかる作品だと解説者は必要ないからだ。

既知の作品に対する解説や評論に現れる視点や個性は、普段から言葉という同じ道具を使う者にとっての新鮮な驚きであり、見るものに新たな視点を提供する。
古典的な話で言うと、宗教画も神話をモチーフにした彫刻も基本的には2次創作だった。
むしろ、引用なくして何らかの表現が可能だろうか?
特に言語表現は、伝わる事が大前提なので、必ず何かをベースに積み上げる必要がある。
オノマトペのみの文章は、もはや音としての価値しかない。

すでに様々な解釈が存在する作品において、作者の本当の意味での「回答」は不必要だ。
そこで、見るものの想像力は途絶え、カテゴライズされて、消費される。
「問い」は解決され、「新たな問い」は生まれてこなくなる。

作品は作家が死ぬ事で価値が確定する。
作者が作品の価値を下げるような事が言えなくなるからだ。

では、この時代にミューズとなるものは何なのか?
(こんなサイトでこんな文章を読んでしまう、あなたのような人の何気ない営みかもしれません。)

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