日本の歴史の流れを簡単にまとめてみた part26 「尊王攘夷か公武合体策か」
開国で外国の製品や外国人が日本に入ってきて、物価の値上がり等で庶民や武士の不満が高まり、外国の勢力を退けようとする攘夷論が強くなってきました。
そういうわけで、下級武士が外国人をおそう事件があい次いで起こりました。
そんで欧米諸国は対抗手段として、居留地に軍隊を常駐させようと考えました。
これは日本の危機、植民地化の危機!ということで、外国勢力を排除する攘夷論に朝廷中心の社会を作ろうという尊王論が合わさって尊王攘夷運動が盛んになりました。
この中心となったのが、山口県の長州藩です。
長州藩は、外国船を砲撃し、朝廷に攘夷を働きかけました。しかし幕府に攻撃されたため、いったんは幕府にしたがうことにしました、シュン。
これに対し、鹿児島県の薩摩藩の考えは…朝廷(公)と幕府(武)の合体により、幕府の権威を回復させようとする政策を支持。これを公武合体策といいます。
公武合体のため、公明天皇の妹(和宮)を将軍徳川家茂の妻にしました。
朝廷中心でいくか(長州藩)、幕府中心でいくか(薩摩藩)。どっちがいいのかな。
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そんなこんなで、鹿児島の薩摩藩士がイギリス人を殺傷する事件が起こりました(生麦事件)。
激おこのイギリスは鹿児島を砲撃しました(薩英戦争)。
また、長州藩は外国船を攻撃していたのですが、イギリス・アメリカ・フランス・オランダから反撃をくらいました。
ボコボコにやられた長州藩は、外国の勢力を退ける攘夷なんて無理ゲーと気づきました。そこで長州藩は、幕府を倒して、天皇中心の政権を作るという野望をもちました。
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薩摩と長州は外国と戦争をして、外国の強さと日本の弱さを理解しました。
そこで、薩摩と長州は、欧米の勢力に対抗できる政権を作ろうと同盟を結びました。薩長同盟です。いっしょに幕府倒そうみたいな感じ。
これは、みんな大好き坂本龍馬(高知県土佐藩)の仲立ちによります。
こんなかんじで、倒幕の危機を察知した幕府は、長州藩をもう一回攻撃しました。んが、長州藩はすでに西洋式の軍隊を身に着けており、幕府は苦戦しました。そんで14代将軍の徳川家茂の急死をきっかけに撤兵しました。
次は15代将軍徳川慶喜です。時代が動きます。