「競争入札」は社会の利益になるのか?
2月28日、五輪談合容疑の関係者が起訴された。私は2月9日付けのnoteで「今回の件は談合ではない」と主張した。しかし、報道によれば、起訴された6社のうち4社は談合を認めたようだ。残りの2社は談合を否定し、公判の中で説明を尽くすとのことなので、今後も動向をフォローしたい。
今回は、これまで談合報道に接しきててずっと感じていた違和感---入札を無条件で良しとする社会の空気---について考えてみる。まず、以下は昨日の読売新聞の記事から。
この記事は「受注調整をすれば経費は高くなり、入札にすれば経費は安く抑えられる」という前提に立っている。実は、他の多くのメディアの記事も同じ前提から書かれていたが、果たしてこのロジックは正しいのか?
ここでは、過去の平均値を引用し、一般的な印象として「談合=割高」と言っているに過ぎず、今回の五輪の受注調整によって価格が割高になったことを証明する内容ではない。
これではまるで、「アメリカ人の平均身長は日本人よりも高い。よって、アメリカ人Aさんの身長は日本人の私よりも高い」と言っているような稚拙なロジックだ。実際、私の身長は日本人平均より低いが、私のアメリカ人の友人の中に、私よりも身長の低い人は少なくとも2名いる。ここで問題なのはAさんの具体的な身長であって、アメリカ人の平均ではない。同様に、今回の談合報道で重要なことは、過去の平均値ではなく、あくまで今回の個別・具体的なケースで実際に値段が高くなったのか否かという点である。
一般に、「入札にすれば安くなる」という前提が当てはまるのは、技術的なハードルが低く、対応できる業者の数が多いケースである。たとえば、100万部のチラシの印刷であれば、競争入札によるコスト削減効果が十分見込まれる。(ただ、東京2020の場合は、大手印刷会社2社がスポンサーだったので、スポンサー契約の取り決めによって印刷業務は競争入札にはならなかった。その分、割高にならないよう調達部門が本当に厳しくチェックしていた。私は印刷を発注する部門にいたので、この点は断言できる)。
逆に、高度な専門性が求められる希少なプロジェクトの場合には、競争入札のメリットは非常に限定的になる。今回談合容疑を否定している2社は、「スポーツ運営は競技ごとに特殊で、得意な自社にしかできない」(3月1日付け朝日新聞)と主張しているとのことだが、確かにテストイベントには競技による専門性が必要で、対応できる企業は極めて限定され、入札にしても競争原理は働かない。
また、発注者の立場からすれば、価格の安さを重視して発注先を決めると、途中でクオリティの問題からやり直しが発生し、結果としてコストが高くなるリスクもある。特に今回のテストイベントは開催都市契約上のデッドライン(大会2年前までにIOCの承認を取る)が迫っていたタイミングだったので、そういったリスクはなんとしても避ける必要があった。その意味で、「競技ごとに運営実績がある業者に随意契約で委託し安く済ませる」という電通からの提案(3月1日付け朝日新聞)には合理性があった。
公共事業の入札を研究する渡邉有希乃氏は、著書『競争入札は合理的か』(勁草書房)の中で、競争入札に制限をかけることの合理性について以下のように述べている。
著者は、「競争さえ確保すれば、安く良質な公共事業を実現できるのか」という問題を提起しているのであって、随意契約を推奨している訳ではないが、競争入札が必ずしも合理的とは言えず、競争制限が公共の利に叶うことがあることを示した意味で意義深い論評である。
さて、あらためて今回の起訴に至るまでの談合報道を見る限り、多くのメディアが「受注調整=コストアップ=悪」「競争入札=コストダウン=善」という図式を、思考停止的な前提としていることが明白である。(それは、確信犯的だとさえ思える)。
確かに一般論としては競争入札にはコストダウンの効果があるが、今回の五輪テストイベントのような特殊ケースについても効果があるのか。逆に、受注調整は本当にコストアップになるのか。もし、「コストアップになる」とメディアが主張するのであれば、なぜ・どの程度アップするのかをロジカルに説明する必要がある。
そこを明確にしないで、空気のような論理を振りかざしていると、「とにかくスポーツイベントは全部競争入札にすべし」みたいな短絡的な事態に陥り、結果として今後日本で公共性のある国際スポーツイベントを実施することは難しくなる。それは、社会にとって損失ではないか。
その意味で、今、スポーツ界にとって「競争入札は合理的か」という問いは極めて重要である。
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