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「月の石」が象徴するもの

2025年大阪・関西万博で「月の石」を展示する構想があるという。「月の石」といえば、1970年の大阪万博の目玉だった。当時小学生だったわたしも叔父夫婦につれられてアメリカ館の大行列に並んだ1400万人のうちの一人だ。ガラスケースに入った石を見て「月の石も地球の石と同じなんだなあ」とちょっとがっかりしたことを覚えている。

大阪万博前年の1969年、米国の宇宙船アポロ11号は人類で初めて月面に着陸した。その様子はテレビでも放送され、月と地球を自由に行き来する時代の到来を予感させた。アメリカ館に展示された「月の石」はそんな未来を象徴する存在だった。見た目にはただの石ではあったが、その石の向こう側に輝かしい社会、科学のさらなる進歩を感じることができた。だからこそ人々は熱狂したのだ。

大阪万博から半世紀が過ぎた今、あらためて「月の石」を展示する意義は何か。それは現代に生きるわたしたちにどんなメッセージを伝えるのか。結論をいえば、それはこの50年間で日本が新しい社会像を提示できなかったことを意味し、「社会の進歩は幻想である」というネガティブなメッセージになるのではないか。実際、50年前の目玉企画に頼ることは、ネタ切れを告白するようで、この半世紀が停滞の時代であったことを認めることでもある。

では今更なぜ「月の石」の企画が浮上したかと言えばそれは、2025年の万博の中に、70年万博への「郷愁」を持つ人たちの影響力が色濃く残っているからに他ならない。それは、50年前の日本を支えた世代(70代から80代の世代)が現在も社会を実効支配していることを示唆する。旧世代が今だに既得権益を手放さずにいるという見方もできるが、後に続く世代が新しい時代を生み出す努力を怠った結果ともいえる。

昨今、万博は「オワコン」ではないかという論調があるが、わたし自身は万博そのものの意義は否定しない。もちろん、50年前のモデルをそのまま適用するのであれば「オワコン」と言われてもしかたがないが、時代に合った新しい万博のフォーマットを発明すれば社会にポジティブな影響を与える可能性があるコンテンツだと思う。万博そのものが問題なのではなく、その在り方が問題なのである。

ちなみに、万博に1647億円の国家予算が投入されることに対する批判もあるが、日本の国家予算から見ればその金額は決して過大ではない(万博協会が稼働する6年で割れば年間270億円で、国家予算の0.02%)。また、もし費用を問題にするのであればその費用の使い道の代案を提示すべきである。実際、予算を使わないで溜め込んでいる方がよほど無駄になる。

2025年の万博は、過去の成功体験に囚われることなく、万博のフォーマットそのものをアップデートできるのか。過去への郷愁から脱却し、万博を通して未来へのヴィジョンを描けるのか。今、問うべきはそのような問いである。そしてこの問いにおける「万博」は、そのまま「五輪」に置き換えることができるのではないか。「月の石」の報道に接し、そんなことを思った。

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