見出し画像

杉並区障害者週間(1日目):ああ、憂鬱な2週間が始まる

 本日、すなわち2024年11月25日から、多くの自治体で「障害者週間」が始まります。私の在住する東京都杉並区でも、障害者週間ということで多様な行事が実施されます。つづいて、12月3日からの1週間は、国の障害者週間です。12月3日が「世界障害者デー」だからです。
 あわせて2週間の「障害者週間」は、私にとっては「ああ、またこの季節か」という憂鬱の元でしかありません。かれこれ20年にわたって中途障害者である私は、約20年間、毎年憂鬱になっています。

「障害者週間」に刺激される人々は、何をするかわからない

 「障害者週間」には、ポスターを見てTVやラジオやSNSでちょっとした啓発コンテンツに接し、啓発行事にチラッと参加したりして、「善意の理解者のワタシ」をちょっとやってみようとする人々が大量発生します。そういう「小さな親切、大きな迷惑」に明確なNoを言うと、大げさにしょげて見せて「善意だったんですけど、私、もっと考えなくちゃいけませんねえ」などという反応をされたりします。期待されているのは、私が何らかの感情労働を差し上げることなんですよね。慰め、励まし、「善意であることはわかりました」という共感などなど。
 しかも、そういう善意の理解者の善意の新設や善意の反省は、国や自治体や大手メディアに公認されています。接触がある限り、私の立場が悪くなってしまいます。でも、自治体と国とあわせて2週間の「障害者週間」の期間は、素人さんたちが障害者に対する「話しかけられる」「ちょっと親切にしてみると感謝してもらえる」といった誤解で刺激され、次から次に、思いつきでしたいことをしてきます。2週間にわたって引きこもっているわけにもいかないし。

障害者に理解あると自認している人々は、障害者を見たら何をするか

 本年の杉並区障害者週間では、「ふれあいフェスタ」「ふれあい美術展」「障害者団体・施設パネル展」が予定されているようです。とりあえず、チェックします。なるべく近寄らないために。うっかり近寄ると、見た目が障害者である私を見たスタッフが顔に「あら」とニコニコと善意をあらわし、甘ったるい声で「どうぞ」とか声をかけてくるかもしれません。ことによると、私の肩に手を置いたり。
 健常者だから、障害者による表現や作品や商品に魅力を感じるとは限りませんよね? たまたま通りすがって、「魅力的な何かがありそうだ」と思ったら立ち寄るかもしれないし、消費するかもしれません。ましてや、ボディタッチされたら振り払うなり逃げるなりするでしょう。
 障害者である私も、同様であってよいはずです。でも、私に声をかけてくるスタッフの方々は、どこかで「障害者だから断らないだろう」と決め打ちしています。甘ったるい語りかけやボディタッチは、それ自体が気持ち悪いだけではなく、周囲の人に「偏見のないワタシ」を見せびらかしている節が見受けられることもあります。
 そういう時、私はなるべく波風を立てずに遠ざかり、「障害者をアピールの具にして良いダシを取るのが、障害者週間なんですね、わかりましたよ」と心の中で毒づきます。互いに話して分かり合えばいい? 無理無理。互いに一緒にいられて対等に話ができることの前提、すなわち「差別をなくす」ことが共有されていないわけなので。

障害者に許されているのは「包摂してもらう」ことだけなのか?

 「ふれあいフェスタ」は、「障害のある方もない方も、誰でも楽しめる障害者スポーツの体験や音楽パフォーマンス、障害者施設による模擬店等を開催します」なのだそうです。こういう文言を見ると、私は「女性でもできる」「奥さん(主婦)でもできる」といった20世紀の家電機器の宣伝文句を思い出し、反吐が出そうになります。メカいじりや工具を使った作業が私より下手くそな男性はたくさんいたし、今でもたくさんいるのですけどね。
 杉並区は「障害者でもできる」ではなく、「障害のある方もない方も」「誰でも」としています。でも実質的には、「障害者でもできる」でしょう。
 むろん「障害者でもできる」は、常に「簡単である」を意味するわけではありません。間口が広げられていたり参入障壁が低くされていたり、個別の事情に対する配慮があったりするだけ。突き詰めていくことが簡単であるわけはないのは、パラリンピックの重度障害者向け競技の数々を見たことのある方はご存じであろうと思います。
 もしも、
「参加したいと思った人の誰もに、参加できる可能性がある」
と書かれていれば、私はムカつかなかったと思います。周囲の人々とともに参加の可能性を創造しつづけてきた障害者や障害児の活動には、掛け値なく素晴らしいものもあります。それは健常者のアートや音楽に、素晴らしいものも下らないものもあるのと同じでしょう。
 なぜそこに、「障害者」という用語を使う必要があるのでしょうか? インクルーシブなアートや音楽やスポーツであることを示すために、「障害者」という用語は必須でしょうか? インクルーシブなのであれば、「病気で活動が制限されている人」「仕事のストレスで身体が円滑に動かなくなっているビジネスパーソン」「育児に疲れた親」「介護に疲れた人々」などなどにも開かれているはず。「障害者」という用語を使うと、障害者と関係者以外は「自分はお呼びじゃない」と感じるのではないかと思われますが、そこは検討されたのでしょうか? もしかして、「障害者」だから用語法はいい加減でも許される(しかも障害者週間だし)と思った、とか? 
 「ふれあいフェスタ」「ふれあい美術館」の両者に使われている「ふれあい」も気になるところです。誰が誰に「ふれあい」たいのでしょうか? そこに障害者たち自身のニーズはありますか? 逆に、「動物園のふれあいコーナーのラットやうウサギやアヒルのように扱われたくない」という障害者の率直な声(若干でも必ずあるはず)を聞き取ろうとする努力はしましたか? 「ふれあい」が名称に含まれている事実を考えると、そのような検討や試行錯誤はなされていないと考えるのが妥当だと思います。
 障害のある著作家は、日本だけでも常に相当数います。そういう人たちに「用語法や表現について、ちょっと知恵を貸していただこう」と考えましたか? 考えたことがないから、今のようになっているのだろうと思います。おそらく「考えたくない」「考えることはできない」のいずれかでしょう。
 障害者に障害について教えてもらうのならともかく、健常者もすること、しかも健常者であっても簡単ではないことを障害者に教えてもらうことは、場合によっては健常者の皆さんの世界の秩序、すなわち「障害者は差別の対象でなくてはならない」という前提を壊してしまいかねません。だから避けて通られ、ないことにされてしまいます。それが現実であることを、私は学習させられてしまいました。
 「そんなことはない」とおっしゃりたいのなら、今年とは違う現実を作ってください。できれば、私が生きている間に。

とりあえず、「障害者だから、障害者の何かについての情報を喜ぶだろう」という無意識の障害者差別を止めてくれ

 まずは、くれぐれも、私に障害者のアートや音楽活動やスポーツへの参加を呼び掛けたりイベントを知らせたりしないでくださいね。善意のつもりで、たぶん私を傷つけることになります。「だったら、どうすればいいのかわかりません」という質問も、私にはぶつけないでください。自分で学んだり考えたりしない人に勝手に期待されるという事実が、さらに私を傷つけます。学ぶための適切なコンテンツは、簡単にアクセスできるところには意外にありませんが、図書館に行けばたくさんあります。

 傷つけられた私は、怒るなり悲しむなりします。泣き寝入りだけは、絶対にしません。 

いいなと思ったら応援しよう!

みわよしこ
ノンフィクション中心のフリーランスライターです。サポートは、取材・調査費用に充てさせていただきます。