博士学位を持っている私が、学歴詐称に関して思うこと。
大リーグで活躍する日本人選手の通訳を務めていた人物が、米国の大学への在学を詐称していたとして話題になっています。私は正直なところ、それほどの大問題とは感じません。
学歴へのイメージは人それぞれ
出身大学や在学していた大学として示される大学の名称に何を感じるかは、人にも場面にもよるものではないでしょうか。
話題の通訳氏に関していうと、「野球選手の専属通訳という特殊な業務を長年にわたって務めていた」という実績がありますから、どこの大学を出ていようが出ていなかろうが無関係な気がします。ただし、ウソはいけませんよ。簡単にバレるから。
なぜ学歴詐称をするのか?
厳しい選抜、あるいは自分の将来を大きく左右する成果が出るか出ないかにあたって、若干「盛る」ことによって結果を変えることが可能なら、それを選ぶ人がいるんでしょうね。写真の修正と同様に。
ただし、写真の修正の若干のやりすぎと違うのは、学歴を盛ることがしばしば、「修正」ではなく「虚偽」の範囲に入ってしまうということです。永久にバレないように隠し通せるとは限りません。バレたときに「もう仲間なんだから、そんなことはいいよ」と言ってもらえる可能性があればともかく、一般的にはペナルティが大きすぎて割に合わないでしょう。
どんな時に学歴が注目されるのか
学歴が注目されて問題にされやすいのは、非難される場面です。よほどのブランド大学の出身者なら「○大学卒なのに」。ブランドとしては機能しにくい大学の出身者なら「○大学卒だから」。詐称の場合は、「やっぱり詐称だったんだ」が追加されます。
称賛する場面でも、油断はできません。内容とは無関係に「やはり、○大学卒は素晴らしい」「やはり、○大学卒はダメ」と語られる時、「○大学」が示しているのは具体的な何かではなく、語り手の願望をはじめとする「お気持ち」です。
学歴が語られる時、その学歴を他の用語に置き換えてみると、意味の程度がわかります。大学進学時点での学力や大学での学修内容など「その大学ならでは」の場面を除くと、学歴を語ること自体の意義が疑問です。大学での学修内容は、もっと関心が集まってほしいところではあるのですけどね。
身近にあった学歴詐称疑い事例への私の対応
20年を超える交友関係のあった元友人・Aさんは、ブランド大学の1つであるB大学卒であると称し、かつ私に語っていました。Aさんと交友関係にあった期間、私は断続的に共通の知人から「AさんがB大学文学部卒ってホント?」と疑問をぶつけられ続けていました。それらの疑問は、「大学卒と称する高卒の男のウソを見抜けなかったのは、Aさんは大学に行ったことがなかったからではないか?」といった、一定の根拠になりそうな事実に基づいていました。
私自身も、疑問を感じることはありました。学生生活や学業の内容についてAさんに尋ねると、言葉をあいまいにされ、話題を変えられてしまうからです。私は、高校卒業から大学院修士課程までずっと「理系の男子校に紛れ込んだ女子学生」のような立ち位置で過ごしてきましたから、文系学部しかないキャンパスでの文系の学びには単純に「知らないから知りたい」といった関心があっただけなのですけどね。
しかしながら私は、「AさんがB大学文学部を卒業していることは確かだろう」と考えていました。彼女が情熱を傾けていた活動で10年以上にわたって所属していた団体には、そのB大学文学部の教員や卒業生が多数いることを知っていたからです。ウソだったら、とっくの昔にバレていたことでしょう。他にもいくつか根拠はあるのですが、彼女のご家族のプライバシーにも関わることなので伏せておきます。
他人に疑問をぶつけられた私は、以上の根拠を挙げて「たぶんホントだと思う」と答え、「なぜそれが気になるんですか?」と聞き返していました。明快な答えは、一度もありませんでした。
学歴詐称への疑いの理由が変わる時
5年ほど前から、私に向けられるAさんの学歴への疑いの根拠が「あんなに頭が悪くてB大学に入れるわけがない」に変わってきました。「頭が悪い」の具体的な内容は、「あらゆるものをブランド力や偏差値でしか計っていない」「自分に高いブランド力をつけることだけを考えていて、内実を伴わせることは全く考えていない」といったものです。いずれも、学歴詐称のよくあるパターンではあります。
私は相変わらず、最も当たり障りないと思われる根拠、すなわち「もしもB大学文学部卒でなかったら、あんなに長くあの団体に所属できていなかったはず」を繰り返していました。
Aさんが「頭が悪い」と思われてしまうようになった事情は、ある程度知っていました。彼女の今後や再起を妨げたくないので具体的には書きませんが、状況がだんだん悪くなり、追い詰められていたわけです。苦境が続き、それが悪化していき、しかも一定の自己責任要因がないとは言えず、どうしても自責に陥ってしまうような時、誰でもある程度は知力や精神力が削られて「頭が悪く」なるでしょう。私? そんな経験は何回もありますよ。
Aさんの事情を誰にも彼にも話すわけにはいかずにいるうちに、私自身が彼女の八つ当たりや攻撃のターゲットになるという変化があり、絶縁しました。なので、Aさんは「元友人」になりました。
正直なところ、学歴の話はしたくない私(日本では)
女子の4年制大学への進学が「四大」として特別視されていた時期に高校を卒業し、博士になってしまった私は、正直なところ「学歴の話はしたくない」と思っています。特に日本では。
内心の感情を正直に叫ぶと、「私、あなた自身に対して悪いことを何かしましたか? してませんよね? 私、あなたに同じことをやれと言いましたか? 言ってませんよね? 私を責めないでください」というものです。私に複雑な感情を向けるのは、その方々の勝手です。私には、逃げる自由も怒る自由もあります。勝手に私の自己責任問題にしないことを求める自由もあります。ええ、断じて、私の自己責任じゃありません。高等教育の価値そのものがインフレしているのですから。
「高等教育がインフレ」という問題
高等教育の価値は、実際の価値以上に高く見積もられてインフレ状態です。日本では1970年代の高校と同様、「行ったからといって得はしないけど、行かないと損をする」というものになっています。そのことを疑問視する人があまりいないのは、世界中でインフレが長年にわたって続いて「あたりまえ」になってしまったからでしょう。高学歴者の処遇に成功しているかのように見える諸外国も、その成功を成り立たせている条件が1つ2つ消えると、どうなるかわかりません。
同時に、教育は人権でもあります。本人の意向や能力と無関係に高校より後の教育が受けられないことは解消されるべき問題です。皮肉なことに、学歴インフレが進めば進むほど高等教育が受けられないことによるハンデは大きくなりますから、高等教育の機会は保障しなくてはなりません。ならば、高等教育を実際に価値あるものにするしかないのではありませんか?
不況になると、高等教育の価値が目減りしてインフレが進みます。「就職氷河期、大卒であることを隠して公務員試験の高卒枠を受験し、20年以上後でバレて懲戒解雇」といった事例が実際に起きています。大卒であることは、就職を不利にしてしまうレッテルでもあります(そういう時、高卒の就職はさらに不利になっているのですが)。学歴を盛ることは好ましくありませんが、それ以上に、隠すことのほうが問題視されます。フェアネスが求められる公務員試験で、より不利な状況にある高卒を結果として排除するのは問題です。処分は妥当なのかもしれません。でも、なんだかモヤモヤします。
パートやバイトの場合、「大学卒を短大卒ということにする」「大学院の修了や在学歴は隠す」といったことは、特に女性の間で非常に多く行われています。そうしないと就労できない、あるいは就労後に嫌がらせやイジメの対象になりやすいからです。でも、個別に「パートやバイトでも書いてない学歴があるかどうかチェックしなくては」といった問題ではないでしょう。
まず、学歴に関する世の中の意識の歪みを直さなくては。
改めて、何が学歴詐称の問題なのか?
もちろん、ウソは良くありません。
ですが、あなたは他人の学歴に何を期待しているのでしょうか? 他人の学歴について何か言おうとする前に、自問しても損はしないと思います。
医療をはじめ学歴が重要な資格とリンクしている職業の場合、学歴詐称は極めて深刻な問題です。ですが、そういう職業の資格をチェックする手段は、本人の名乗る学歴をチェックすること以外にも存在します。「医師(自称)」が存在しては困りますから、公権力がチェックしていますしね。
もちろん、試験も公権力によるチェックも完全ではありません。そこは、大学内や分野内で審査される博士学位と同様です。ですが圧倒的多数は、不正や詐称と無関係に関門を突破しています。圧倒的多数をいちいち疑いの目で見ていたら、病気の時に医療機関のお世話になれなくなりますよね?
ときどきセンセーショナルに報道される事例に振り回されず、実情がどうなっているのかを知ろうとする方が増えれば、と思います。
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