ALS女性嘱託殺人報道の数々に、絶望し、疲れました
2019年11月、京都市に在住していたALS患者の女性(当時51歳)を嘱託殺人した疑いで、2020年7月23日に医師2名が逮捕されました。
それから1ヶ月が経過したわけです。
私は日に日に、本件の報道等を見ることに耐えられなくなりました。この数日は、見ていると涙が出てきて泣き叫びそうになります。読むと心と精神をタコ殴りされ、口や手に見えない猿ぐつわや見えない手錠がかけられようとしているような気がします。要は、「あんた障害者なんだから空気読んで自主規制しなさい」という雰囲気を感じてしまうというわけです。
もちろん、障害者だから言うべきことも、障害者だから言ってはならないことも、本来はあってはなりません。しかし、期待される女性障害者の言動をしない場合、「障害者としては生きていけなくなる」、すなわち生きていけなくなることにつながりかねません。
誰も、明確な言葉で私に対して何かを要求しているわけではありません。しかし、暗黙の腹芸のナアナアの、真綿で首を締めの、がたくさんあります。無視する自由はありますが、すると実質的に罰されかねないのです。しんどい。
障害者は、特に女性障害者は、そんな世界に生きてます。
(なお、本記事は、こちらのブログ記事を下書きとしています)
報道が作ろうとしている介護者や支援者の像
報道が開始された当初から、世論が介護事業者やヘルパーの責任を問う方向へと流れないように、先手が打たれている印象を受けました。
最初に「怪しい」と感じたのは、介護事業者など支援者側が、亡くなった林優里さんのブログやツイートを「知らなかった」としているという報道を見かけたときです。「なぜ、わざわざ、そんなことを書くかなあ?」と思いましたよ。
そもそも、知らないなんて不自然すぎます。役所の福祉部門や介護事業所等は、生活保護利用者や障害者によって自分たちがどのように書かれているか、けっこう神経を尖らせているものです。余談ですが、私なんて誰にも存在を話していない英文のブログに杉並区障害福祉とのゴタを書いた3日くらい後、「そんなことを書くと、今のわずかな障害者福祉もなくなるぞ」と圧力かけられたことがありますよ。その杉並区役所ではなく、福祉事務所(障害福祉は福祉事務所所管)が強引に押し付けた訪問医療の作業療法士からでしたけど。2007年から2008年にかけての話です。
全くチェックしていないとしたら、危機管理の観点からいって、ちょっと問題ありそうに思えます。「利用者に自分の悪口を書かれたら困る」という恐れもあるでしょう。虐待やハラスメントを実際にやってて「書かれたら困る」というのなら、対策は「最初からしない」ですけど。逆に「組織や上司の目のとどかないところで、末端の従業員が何をしているかわからない」という恐れから、ある程度の”エゴサ”を行い、利用者が公開している文書をチェックすることも。いずれにしても、ある程度はチェックすることこそ自然なのであり、「知りませんでした」は不自然なのです。
林さんの場合は、「京都市」「ALS」「24時間介護」「女性」あたりから、ブログやSNSアカウントが簡単に突き止められたはずです。介護事業所との関係の中での救いのないストーリーを、結末が救いのないままながら希望のもてる書きぶりで締めくくっていたりするあたりから、また、実際に起こっている虐待的な扱いを少しはオブラートに包んだ書きぶりから、介護者・支援者の目や反応を意識していた可能性が見受けられます。
もちろん、公開されていないメールやSNSメッセージのやりとりを介護者や支援者が知るのは、好ましくありません。ましてや安楽死の具体的な相談となると、林さんは見せない努力をしていたことでしょう。
ブログやSNSアカウントの存在や内容に関して、報道の数々で紹介された支援者や介護者の言葉には、不自然な点が目立ちます。フツーの健常者は疑問を持たないかもしれないけど、障害当事者でありモノカキ稼業23年目の私は、脳内が「?」だらけになります。そもそも報道が解禁されはじめてから数日間の記事は、締切時間とコメントが取られたと考えられる時間帯とコメントの主だけで「怪しすぎる」ものがいくつもあります。
最大の疑問は、「なぜ、そんなことを?」「なぜ、ここまで?」でした。今もそうです。
何のために、介護者や支援者の像を作るのか
至極当然の理由として考えられるのは、「ケアマネの横暴やヘルパーによる虐待の可能性に注目されたくない」というものでしょう。そしてそれは、単なる「都合が悪い」「人聞きが悪い」という話ではないと思われます。
自分自身の記事(たとえばこちら)でさんざん書いてきていますが、介護業界には深刻な人材不足があります。仕事と責任の重さに見合う給料じゃないですから。最低賃金よりは高いとはいえ、コンビニやスーパーが人手不足から時給を上げれば簡単に抜かれる時給です。2019年は、1人のヘルパーさんを14.5件の求人が奪い合う状況でした。高齢者福祉より、障害者福祉の人材難の方が深刻です。障害者福祉の中でも医療的ケアを伴う分野だと、さらに深刻な人材難になります。
ALS患者さんの介助をするためには、特別な技術をいくつか身につけ、さらに各患者さんに個別対応する必要があります。このことは、介護労働者にとっての重責や負荷ではありますが、長期にわたって腕を磨きながらキャリアを継続できる可能性があることも意味します。私の直接知る範囲には、ALSのの介助でキャリアアップして介護事業所の経営に至った女性もいます。ALSの介助は、「介護は給料が安くて悪条件で不安定な仕事」という”常識”の例外を生み出しやすかった障害分野の一つです。ヘルパー資格を持っていない人の登用をやりやすくする仕組みも、長年かけて作られてきました。
それでも深刻な人材難。安倍政権下で行われた介護報酬削減の影響も深刻です。「人であればなんでもいい」という採用をせざるを得ない場面も増えてきているようです。
その状況で、「虐待があるわけない」と言われたってねー?
そうはいっても、世の中や患者さんたちに「虐待とセットの介護を受けて暮らすしかないのなら、もう死んだほうがいい」と思われてしまったら、今までの蓄積まで失われてしまいます。24時間介助を受けて地域生活をする重度障害者を増やし、そのポジティブなイメージを広報していけば、人材難が解消されてヘルパーの質も上がるかもしれません。良心的な支援者たちや介助者たちが、それを何とか目指し続けようとしているのは私にも分かります。必ずしも、虐待の可能性や事実(もし判明すれば)をストレートに書けばよいというわけではありません。
が、障害者運動の路線に、報道が沿い続けていいんでしょうか? 広報ではなく報道であることの意義は、どこにあるのでしょうか? 現状を伝えながら、ポジティブな事実も伝えながら、しかし虐待の可能性に蓋をせず、介護や介助に関する構造的な問題を解決する方向に世論を動かしていく方向性だってあるのではないでしょうか。
私は、心ある報道陣の一部がそういう動きをしていると見ていましたし、期待していました。しかし1ヶ月が経過した今、「もう、たぶん無理」と絶望的な思いを抱いています。
必然的にそうならざるを得ない面もあります。取材に当たっては、ALSの介助に関わっている数少ない介護事業所や支援団体や当事者団体を情報源の中心とせざるを得ません。それらの意向に沿わない取材や報道は、「やってもいいけど出禁覚悟」ということになるでしょう。政治スキャンダルなら、信用させておいて公益のために裏切ることもありえます。しかし、本件における「公益」とは?
虐待の可能性を表面化させることは、まぎれもなく公益に役立ちます。しかし、ALSの介護に関わっている数少ない事業所を今すぐ減らしてしまったり、虐待はするけれど仕事は一応するヘルパーが全員すぐ退場する結果につながると、ALS患者さんや家族の生命や生活が奪われ、公益どころではなくなります。
「死人に口なし」とは言うけれど
私が耐えられなくなっていった決定的瞬間は、2020年8月5日の京都新聞記事「ALS女性嘱託殺人事件報道について、日本自立生活センター記者会見全文」を読んだ時だと思います。
会見した障害当事者スタッフ3名のうち、大藪光俊さんと増田英明さんには直接の面識があります。障害者の世界は狭いのです。
私は、増田さんの言葉に、立ち上がれないくらい打ちのめされてしまいました。
私たちは生きることに一生懸命です。安楽死や尊厳死を議論する前に、生きることを議論してください。
私自身の立場は一貫しています。今の日本には、安楽死や尊厳死を云々する前提がありません。なぜなら、「安楽生」「尊厳生」が無条件に保障されているわけではないからです。生きることに関する多数の魅力的な選択肢があり、どれも容易に選ぶことができ、それよりやや選びにくい位置に「安楽死」「尊厳死」があること。それが、明日も生きる選択の代わりに「安楽死」「尊厳死」を選択できるための最低条件でしょう。「生きる選択が事実上出来ないから死ぬ選択を」という論理を認めるわけにはいきません。それは、社会全体で自殺幇助しているのも同然です。この点では、増田さんとの意見の相違はないと思います。
そしてヘルパーさんや経営者のみなさんにエールを送ってください。おねがいします。
エールだけじゃ無理です。同情するなら人間らしい暮らしが営める報酬を。経営が無理ゲーにならない環境整備を。もちろん、増田さんを含む日本の重度障害者たちは、そのために闘ってきています。しかし、この文は何のためにあるのか。次の文を読むと、隠された目的のようなものが浮かび上がってきます。
安易に彼女の言葉や生活が切り取られて伝えられることや、そうやって安楽死や尊厳死の議論に傾いていくことに、警鐘を鳴らしてきました。いま私たちの間には静かな絶望が広がっています。
林さんが書き残した苦痛の数々は、程度も内容もさまざまです。しかし、時系列的にも内容的にも、矛盾がありません。全体を踏まえながらどこかを切り取ったとき、決して「つまみ食い」になりません。
そして林さんの残した言葉からは、若干の迷いはありますが、論理的に「だから生き続ける選択はなく、安楽死しかない」という結論が導かれます。その明晰な思考を、誰が論理的に否定できるでしょうか。それはそれで尊重されるべきものだと思います。
突き崩す必要があるのは、前提条件や仮定でしょう。前提条件や仮定が大きく変われば、同じ林さんが同じように推論ても同じ結果にならず、「安楽死しかない」は偽という結果になる可能性は高いと思われます。
何があれば死ななくてよいのか。それは、林さん自身が見抜いていました。介護報酬を高めること。他の仕事にも就ける人が誇りをもって介護職に就けるように地位を高めること。それは、ツイートに繰り返し出てますよ。結果として介護業界に「良貨が悪貨を駆逐」が起これば、「だから生き続けよう」となったでしょうね。介護業界の「良貨が悪貨を駆逐」は、リーマン・ショック後の2~3年間ほど現実になりかけていましたが、第二次安倍政権で壊滅しました。
「虐待に甘んじていなくてはならないのはイヤだ」という林さんの魂の叫びが浮かび上がってくるような記述の数々を、なぜ、障害当事者や介護や支援に関わる人々が、「いやそんなことはなかったはずだ」と言わんばかりになるのでしょうか。結果として「死人に口なし」です。そうなってしまう背景は、ある程度は分かるつもりですが、私は深く深く絶望しています。
私の仲間はこの報道を聞いて、自分がどうしていいのかわからなくなったといいました。支援者もこの事件や報道に傷つきながら、わたしたちを支えてくれています。
福祉・介護・医療のパターナリズムは、障害者だけで話をするとき、「あいつら最悪」という形で語られることが多いものです。しかし障害者自身が声をあげようとすると、うまいこと”回収”されてしまうんですよね。「私たちも、もう少し考えなくてはなりませんね」「私たちも、そういうお気持ちを理解できるようにならなくてはなりませんね」などと。
私は、そういう経験をイヤというほど重ねてきました。私は単に、「こういう言動がイヤだからやめてほしい」と言いたいだけです。膨大なリストになるようなものではなく、重要なものに絞れば10項目以下になりそうなものです。でも、聞いてもらえたことがありません。そういう話をしようとすると「その前にもっと相互理解を」など。「足を踏まないで」「石を投げないで」と言うために、なぜ相互理解が必要なのかでしょうか。ともあれ、私は消耗し、絶望し、相手たちから離れていくことになります。
最近、そのパターンが繰り返されると「相手が意図的に、こちらの消耗と絶望を誘起しようとしている」あるいは「相手は、私が嫌がることを絶対にやめないつもりである」と考えるようになりました。
増田さんの仲間の当事者の方が語ったという「自分がどうしていいのかわからなくなった」という言葉があります。私も、どうすればよいのかわかりません。現状がおかしいのは、はっきりしています。このおかしな現状を変えなくてはなりません。
彼女のひとつだけの言葉をとって、安楽死や尊厳死の議論に結びつける報道は、生きることや、それを支えることにためらいを生じさせます。いまこの事件をしって傷ついているひとたちに、だいじょうぶ、生きようよ、支えようよ、あきらめないでと伝えて、応援してほしいです。生きていく方法は何通りも、百通りだってあります。ひとの可能性を伝えるマスメディアの視点を強くもとめます。
増田さんの「生きることに向かおう」という方向性は、私も同じくしているつもりです。
でも、生きる方法の模索とともに現在の苦痛の除去、可能性の追求とともに阻害要因の除去が必要なのではないでしょうか?
少なくともご本人が「障害者虐待」と感じている可能性があること、ご本人の文章を読んだ私や友人の障害者たちが「これ虐待だよね」「これだったら私だって死にたくなる」と感じるようなことをなくすことは、ポジティブな追求の前にすべきことではないでしょうか?
女性というジェンダー、「女性であるにもかかわらず」ということになりかねない高学歴や過去の職業キャリアが、苦痛を増加させたり除去しづらくしていたのだとすれば、女性であっても高学歴であっても職業キャリアがあっても今を快適に生きられることを、無条件に担保されるべきではないでしょうか? その阻害要因を除去するべきではないのでしょうか? もしも支援者や介助者の「学歴コンプ」の類が原因なのなら、臨床心理士の力を借りることもできるのではないでしょうか。私は1980年代、教職課程の中でカウンセリングの手ほどきを受けました。カウンセラーだってコンプレックスを掻き立てられることはあります。そして1980年代には、一応は対処が定式化されていました。
福祉や介護の場において、利用者を効率的に動かしたり利用者によるトラブルを避けるために、心理学や精神医学の知見は広く使われています。少しくらい、逆の使い方をしてもいいんじゃないですか? 福祉や介護を供給する側「が」、自分の内心の闇やドロドロをうまく昇華してから仕事にあたるために使ってもいいんじゃないですか?
現実の問題としては、支援を必要としている本人の生きがいを阻害している要因を除去したら、しばしば抱き合わせで支援が除去されてしまい、生きていけなくなるわけです。その現実に正面から向き合って変えなければ、いつまでもこのままではないでしょうか?
私は、その可能性に向かうメディアの一員であろうとしています。
が、毎日のように「これでもか、これでもか」と繰り返されるポジティブ重度障害者ライフキャンペーンに、ぶちのめされてしまいました。
ポジティブ要因が悪いと言いたいわけではありません。虐待や差別といったネガティブ要因に蓋をせずにポジティブキャンペーンを展開することだって出来るはずだと言いたいのです。
私は疲れ果て、絶望しています
私は、ぶちのめされてしまいました。
ことさらに誇示されるかのような、ポジティブ重度障害者ライフの数々に。
「安楽死上等」という意見も尊重してこその言論の自由なのに、「誤りだ」「言ってはならない」と言わんばかりの識者の声の数々に。
本件の報道が、立場の弱い人の主張を支えて拡大する方向や、誰もが自分の言論の自由を行使出来る方向に向かっているとはいえないことに。
虐待や差別や排除が「ある」という事実を認めて無くすのではなく、「つながり」「共生」「包摂」といった実体不明の言葉で明るい将来像が示され続けることに。
絶望しました。
疲れ果てました。
しばらく本件から離れていようと思います。